冬虫夏草でがんにリベンジ|台湾編






    


                         台湾阿里山の夜明け

台湾・中国・日本を熾烈に生きた男の回想録

冬虫夏草 > 台湾編 > 中国編日本編


はじめに

本場中国で「神秘」といわれ、4000年もの長きにわたって漢方生薬の頂と賞された冬虫夏草。歴代の皇帝が重用した希少で貴重な生薬を安価で日本国民に提供しようと考えた男がいた。このサイトは、日本で初めて冬虫夏草の大規模栽培に成功した川浪の回想録である。

川浪が生まれ育ったふるさと・広島を出て台湾に飛んだのは、強い怒りと深い悲しみの出来事がきっかけだった。それから6年の後、台湾大震災に遭遇して台湾・阿里山に築いたキノコ菌床ビジネスが壊滅。そして失意のどん底で渡った薬膳の本場中国。
さらに6年に及ぶ命がけの研究活動を終えて帰国し、夢を実現させたのだが、日本ではさらなる激動を体験することに。

親父の遺志を継がんとして広島を愛した男が、厳しい運命に翻弄されながら壮絶に生き抜いた七転八起の回想録である。


肝臓癌の父親にリベンジを誓う

今から30数年ほどさかのぼる昭和57年春のことだった。少しづつ元気になってきたように思えていた親父が「身体に鉛が入ったように重い」と不調を訴え、すぐに検査をしたところ、肝臓癌。しかも、余命3ヶ月という厳しすぎる診断だった。

旧満州(中国遼寧省鞍山市)に生まれ育って終戦を迎え、1年後、いわば満州日本人のしんがりとして日本の地を踏み、広島県庁に勤めた親父。
生まれて初めての日本である。まずは妻(母親)方の縁を頼って、広島県の田舎町に仮住まいすることに。
往復3時間を越すという道のりをバスで通いながら、原爆で廃墟と化した広島の復興に骨身を削った。
戦後の建設物価高騰に伴う復旧予算の不足を埋めるべく東京に出向いて中央省庁と折衝し、広島にいるときは資材の価格を抑えるべく業界団体と交渉に骨身を削るという重要任務に就いていた。
どちらも酒なしでは話が進まない、難敵である。酒が強くない親父は、無理に無理が重なって肝硬変を患い、以来25年、ずっと病床にあった。
長生きしてもらいたい、大好きな広島カープ観戦や温泉旅行にも行ってもらいたいの一心から、必死に癌を克服できる「何か」を探し求めた。
インターネットのない時代だから、情報を集めるのに随分と苦労した。丸山ワクチン、抜毒丸、ビワの葉、クマザサなど、いろいろと試みたがまるで坂道を転げるように病状が悪化して、入院45日目の4月26日早朝に永眠、享年67才。
「何もしてあげられなかったね。引き続いて癌を克服する何かを探しだして、必ず癌にリベンジしてみせるから、成仏してください」と涙をこらえて、川浪は静かに眠る親父に誓いを立てた。

それから4年の間、重機部門を広島県でトップクラスにするために膨大な設備投資を続け、毎月1000万円を超える割賦を決済をするために血眼になって働いた。
そして賦払いが完了して無借金経営に突入したのを期して、広島中心部にほど近い中区舟入町内に念願の自社ビルを建てた。
さらに1年が過ぎ、日本経済は、いわゆる「バブルの崩壊」に向かって最期の炎を激しく燃えあがらせていた頃だった。
公共事業・特殊工事・重機工事・ゴルフ場開発設計・建築設計・不動産開発・バイオ事業化など多角経営に精を出していた川浪だったが、突如として、人生の大転換を余儀なくされたのである。全権、さらに全法人資産を実兄に委ね、退路を断って、今わの際に親父と交わした「癌に打ち勝つ何かを探し求める旅」に向かったのである。

「薬膳キノコ」が癌を克服するかもしれないという情報を伝え聞いてキノコの研究を思い立ち足を向けたのが、4000mに届く山々がそびえる台湾・阿里山だった。
台湾には広島を出る2年前、40才の時に台中市の養鶏組合からの要請で、傘下会社が研究する培養酵母菌(梅の切株に繁殖する酵母)を試験供給した縁があった。その筋から調べてもらうと、薬膳キノコの研究を手伝ってくれる研究所が阿里山にあるという。

早速、キノコのメッカといわれる阿里山に向かうことになった。英語も台湾語も満足にしゃべれない男がただ一人、手探りでキノコの研究を始めたのが42才のときである。
養鶏組合の男が案内してくれたのは、台湾で有数の観光地、阿里山・日月潭に向かう観光道路からさらに15分ほど谷合いに入った、林道沿いのちっぽけな施設だった。
付近に自生しているキノコから組織を採取して試験管に分散し、種菌として地域のキノコ栽培者たちに分け与えたり、培養、栽培技術を教えている政府の教育施設だという。
主任(所長)と呼ばれる60歳代の男は、人の好さそうな笑顔で何やら話しかけてきたが、まるで台湾語が理解できない。・・こんな筈ではなかったがと、急に大きな不安が頭の中に広がってきた。
施設の周りは深い茂みだった。
売店も民家も30キロくらい離れているそうだし、日本の運転免許では運転もできない。もちろん秘境と言われる山奥だから、電車もバスもタクシーもない。知り合いもいないからホテルだって探せない。三食三度のメシはどうすればいいのか。
何の支度もしてこなかった自分を悔いた。引き返して充分に準備をしてまたの機会にとも考えたが、ここで心が折れれば、諦めてしまうかもしれない。
進むしかない、もう今の自分には選択肢はないのだから、と思うしかなかった。
幸いなことに、そこには守衛が寝泊まりしていた部屋が空いてるという。
そこなら小さな炊事場もあって、簡単な煮炊きくらいはできるらしい。贅沢は言えない、そこに泊めてもらって、飢えをしのぐためにコメでも焚いて食らうより他に方法はなかろう。
そして何より怖いのが、人里離れた施設だから夜になると人っ子一人いなくなることだ。その夜から、日本語のテレビも新聞も日本料理も日本語を喋る相手もいない、もちろんインターネットも普及していない、という孤独で暗黒の時間が始まろうとしていた。
思い起こしてみるとほんの1週間前までは、広島や博多の繁華街、流川や薬研堀、中洲で華美な夜を過ごしていた。そんな男がただ一人、異国の、人里離れた秘境の、暗く寂しい施設の、薄暗い古ぼけた小部屋で、コメと漬物と缶詰の料理をむさぼりながら長い夜を過ごすというのである。
そして1週間もたたないうちに、あまりの寂しさに気が狂いそうになった。

台湾・阿里山の夜空は、あまりにも暗い。工場群から排出される環境を度外視したバイ煙で、自然豊かなこの地でも輝く星空が失われていた。
暗いというよりも、むしろ黒くて重たい静寂。
時折、突風にあおられた樹々が揺らぎ、木の葉が擦り合う音が無数に重なって、ドド~ンという山鳴りになって静寂を破る。
そんなある夜、遙か先方の紅いランプがゆっくりと揺れながら近づき、停まった。自動車のオーディオからだろうか、耳懐かしい演歌のメロディが流れてきた。
透きとおった美しいメゾソプラノに心が震え、窓にすがってガラスに耳を押しつけ、脳裏に刻まれていた日本語の歌詞をなぞった。

「夜の新宿裏通り
 肩を寄せ合う とおり雨
 誰を恨んで濡れるのか 
 逢えば切なく別れが辛い
 しのび逢う恋 なみだ恋」

この歌は確か八代亜紀の・・・、あの「なみだ恋」が中国語に吹き替えられているんだ。
懐かしく哀愁に満ち澄み切った歌声が、深く胸に浸みていった。
やがて歌声とともに、紅い2つの灯が揺れながら遠のいて行く。
「待て、待ってくれ、もう少し聞かせてくれ」
錆び付いた窓を必死にこじ開け呼び止めようとしたが、一陣の突風が山鳴りとなって儚い想いを掻き消してゆく。
胸の奥にしまい込んでいた郷愁と我が身の切なさが涙となって溢れ出し、頬を伝って暗いガラスを濡らした。親父の死にもじっと耐えていた男の悲しみが、一挙に堰を切った。 


夢にまで見た薬膳キノコは冬虫夏草

馬軍団の活躍で冬虫夏草を知る

ほんの1週間という、人生のなかでは瞬きをするくらいの短い間に進むべき道がゴロンと大転換することになった。
それは、子供のころからの夢だった「政治家になる」という野望を、この両手に掴もうとした直前のことである。
広島市の中心に近い高級住宅地、舟入という川浪が暮らす地区は、大戦前も終戦後にも、県議会議員はおろか市議会議員も出ていない。いわば「纏まらない地区」であって、選挙のたびに、延々と眠っている4万票余を他候補が奪いにくるという草刈り場になっていた。
ならばと、28歳の時に、川浪は県議会議員になってみるかという夢を見たのである。
それからというもの、南に接する江波地区で活躍されていた市議会議員Y先生のもとに出向いて、政治家修業を始めたのである。大衆の面前で演説する訓練、老人たちのお世話や地域活動、そして選挙の手伝いを自発的に行った。
この先生、人格はきわめて素晴らしい方だったが選挙が弱かった。頭を下げて票を拾うことが出来ないから、今までの選挙では全市40数名の当選議員のなかで、いつも下から数えて4~5番目くらいだった。
尊敬する先生のもとで2回目の選挙が過ぎて、迎えた3度目の選挙では、支援してくれる若者を取りまとめてローラー作戦を取り仕切ることになった。
公示の1ヵ月ほど前から、中区の西半分のほぼ全戸を挨拶まわりするという「ドブ板選挙」を展開して、見事に得票数第3位という大躍進をとげて、その立役者となった。
この功績が認められて、Y先生も江波地区の長老たちも、行動をともにしてくれた若者たちからも推されて、選対組織のトップを務めるようになった。
以来10年ちかく、市議会選、県議会選、市長選、衆議院議員選、参議院議員選で常に舟入地区6町の町内会・婦人会・老人会などの組織を取りまとめ、南の江波地区もY先生とともに駆けずり回り、さらに東に川を跨いだ大票田、光南や吉島地区にも活動の輪を広げていった。
42歳を前にして機は熟していた。
衆議院選挙直後の統一地方選で、県議会議員選挙に出馬する腹を固めたのである。
そして選挙イメージが悪い重機部門を移転し事業縮小、代わってハイカラなマイホームを建売する事業へと変貌を図ろうとしていた。自社ビルの3階フロアーを選挙対策室にあて、商事部の課長職を秘書にして着々と準備を整えていた。そして立候補の表明を数日後に控えた夜、川浪は母親にその意を伝えた。
「強くなりたい、絶対に負けたくない。そのためには政治家になることが一番の近道。権力を握って、そのうえで親父が出来なかったことを手掛ける。広島県のために尽くしてゆきたい」と。
親父を失ってからというもの、身体がどんどん小さく萎んでゆく母親。その憂鬱そうな表情から、想いもしなかった強い言葉が返ってきた。
「そうしんさい、あなたは政治家になって自分の道を歩んだらいいよ。その代わりに、会社のことは全てを兄ちゃんに譲ってあげて。あの子はずっと、あなたの日陰に甘んじてきたのだから、これからは、好きなようにさせてやってほしい」
老母の真意は痛いほど分かった。
経営の実権を握って輝きつづけた川浪に対して、20年間も何も言えずに悶々と暮らしていた兄が不憫だったと言う。だからこれを機会に、会社の全権を兄に譲れというのである。
「分かった、お母さんの思うようにする」
考える余地もない、その方が、憂いを残すことなく政治の世界に打ち込める。
もう後には引けない、全力を尽くして選挙を戦おう。選挙で落ちるということは、活きる道をなくすという意味なんだ。選挙を勝ち続けて、絶対に強い政治家にならんといかん。
続いてその夜、キリスト原理主義を深く信奉する妻に向かって立候補する旨を伝えた。
政治家を「サタン!」と位置づけて敵外視する宗教に嵌りこんだ妻は、何も言わずにジッと一点を見つめていた。
それから僅か2~3日ほどで、築き上げてきた人生が大転換したのである。

「アンタは選挙も宗教までも、ワシらに従えと言うんかいのう」
地元の親しい長老たちから、思いもしなかった激しい叱責が飛んできた。ニコリともしない表情からは、今までの親しみが消えていた。雑貨屋を営んでいる温和な老人も続いた。
「アンタの奥さんがの、先頭に立って5~6人で店に押しかけてきての、何時間も、狭き門とかに入れっちゅうて粘るんじゃ。店先であがーなことされたら、商売にならんで」と憤る。
いきなり、煮え湯を浴びせられたような心境だったが、状況は概ね理解した。
妻は、宗教仲間で呼び合う「兄弟姉妹」たちを動かして、政治家になろうとしている川浪の立候補を潰そうとしているのだ。
厳しい嫌がらせがはじまった。キリスト原理主義者たちと、宗教戦争が勃発したのである。
思い起こせば、あれは結婚して2年ほどたった夕刻だった。突然と、池田と名乗る夫婦が訪ねてきて「ものみの塔」という小冊子を出し、それまで聞いたこともないような優しく柔らかな口調で宗教の説明を始めたのである。
邪教だと断ったものの、興味をもった妻は「一緒に勉強しましょう、邪教だったらすぐに辞めるから」という。そういう約束のもとで「ものみの塔」を手に取った。
この宗教は、キリストよりもっと前の人類の創造主を奉るもので、趣旨としては「創造主以外は敬愛してはならない、偶像礼拝の禁止」だとか「政治家はサタン」だという2点が気に掛った。その手口からして、あまりにもアヘン戦争を引き起こす前の宣教師たちに似てるなと感じて妻に勉強をやめよう伝えたものの、すでに遅かった。
数ヶ月後、妻と子はバプテスマを受けて宗教の門に入る。週3度は集会所(教会)で祈りを奉げ、それ以外にも毎日のように勧誘活動に精を出して、一時として家で話し合う間もないほどにのめり込んでいった。
そんな背景のもと、確かバプテスマの直後か翌年に、川浪は、子供の頃より憧れていた政治の道に進もうとして市議会議員Y先生の門を叩いたのである。
以来、我が家は羊の群れとサタンが同居したような喧噪状態となり、宗教をやめさそうと何度も怒鳴り合ったり、別居を繰り返した。
政治への道と宗教の道、ほぼ15年に亘って別々の道を歩いてきた妻と子供たち。離婚話しもたびたび切りだしたが、離婚は宗教で禁じられているからと話し合いは噛み合わない。
解決不可能な大問題を抱えていたものの、それでも川浪は、夢に向かって進むという決断をした。
あの当時の「政治家の奥さん」というのは、有権者にペコペコと頭を下げ続けて、飼犬にまで笑顔を振りまくというご時世である。そんなこと、妻に期待してはいなかったが、ただただ政治事には一切かかわってほしくなかった。その代わりに、妻や子らが如何に宗教をやろうと、もう何も言わないから、と。
それなのに、兄弟姉妹たちとともに群れながら「夫をサタンにさせない」と叫んで、選挙を妨害する妻がいた。
こんな立候補者なんて、日本の何処を探してもいやしないだろう。
迷い苦しんだ、宗教と縁を切るには離婚訴訟を起こすしかない。でもその準備が間に合わないし、そんな事態になると格好の新聞ネタになって「浮気だ不倫だ」と大騒ぎになるだろうし、選挙になれば、兄弟姉妹たちは、今よりも増して妨害活動をやってくるはずだ。
今回の選挙は勝てるかもしれない。だが、宗教戦争はますます厳しくなってゆくだろうし、直ぐにブラックイメージが貼りついて永遠に女性票とは縁のない、政治には向かない男になるだろう。
自分の先には地獄しかない。
どんなに考えてみても、もう打つ手はなかった。
立候補は無理だ、ずっと思い続けてきた政治家の道を断念せざるを得ない。
怒りに震えた。
頼みとする地元で大恥をかかされ、進むべき道を閉ざされて気が動転していた。
羊らが群れる集会所(教会)に重機をもって行って、ことごとくぶち壊したい。もう2度と活動ができないほどに、椅子も部屋も建物もバラバラに踏みつぶしてやりたい。妻や子を恨むよりも前に、宗教を激しく恨んだ。そして、爆発して暴力に走るかもしれない自分を恐れた。
そんな激しい怒りを制する、もう一人の川浪がいた。
「時を置け、川浪には他の道もある。今すぐに、この場から離れなければならない。いや、広島を出るより他に選択の道はない」と。
そして葛藤から逃がれるように、最終の新幹線に飛び乗って九州・博多駅に向かった。

紅い胸の高まりが、徐々に鎮まっていた。
もう広島には帰れんような気がする、と飛ぶように消えてゆく窓灯りを眼でで追いながら、ぼんやりと頭を動かしていた。
苦しかった仕事、楽しかった日々、ともに歩んだ社員や友人たち、輝かしい過去の想い出。暗い窓に映る様々な広島の残像を、深い闇に消し去りながら考えていた。
仕事も会社もなくして、政治の道をも閉ざされた男が、広島にいて何をするというのか。兄や母に「あの話はなかったことにしてほしい」と頭を下げて復職をしようというのか。それとも、選挙で知り合った先生方や応援してくれた社長たちに「私を雇ってほしい」と頼むのか。
いやいや、自分はそんな「負け犬」にはなりたくない。博多にも知り合いは数いるが、彼らを頼って生き伸びてゆくのも情けない。
もう他に道はない。
あの今わの際に親父と約束した道、癌に打ち勝つ何かを探し求める旅に出よう。それが、自分の運命なのだと。

台湾に辿り着いて2ヶ月たらず、阿里山の中腹にある田舎町の小さな旅社(旅館)にベースを移した頃から、川浪は村の主役になっていた。

毎晩のように、周辺の若者が研修施設に迎えに来ては近くの居酒屋に行き、陳年紹興酒にライムを搾り入れて酌み交わし、そして騒いだ。
施設の暗闇のさ中で聴こえたあの「なみだ恋」は、街角のどの酒場でもよく耳にした。
 春季里我喜欢绵绵细雨
 雨中我有多少美丽的回忆
 你和我初次相遇 就在小雨里
 淡淡一笑 我俩开始 建立了友谊
 到如今我还觉得甜蜜
大ヒットを続けるこの曲は、鄧麗君(テレサ・テン)が北京語でリリースした「甜蜜的小雨」だと知らされる。聴こえてくる度に、とっくに忘れ去ったはずの郷愁が膨らんできて、眼の奥が緩んだ。
熱帯の直射を浴びる厳しい阿里山の夏が過ぎ、山に秋の気配が漂いだしたころ、結果的に気心を通じ合った仲間たちと共同で、キノコ菌培養研究所を立ち上げることになる。
阿里山に自生するキノコを培養(1株のキノコから数百株の優秀なキノコを発生させる技術)し、菌床(キノコを発生させる栄養塊)に仕立てて日本に輸出するというビジネスが目的だ。

広々とした畑の一角に用地を確保してくれて、菌床製造に関する費用は台湾の友人らが出資した。菌糸育成(菌床に菌株を植えこんで菌糸が蔓延するまで寝かせる)のためのハウスというか倉庫というか、については川浪が受け持つこととなった。
朋友たちは川浪に資金がないのを見越してか、皆んなで廃材を持ち寄り、棟上げをして、屋根には分厚く茅を吹き、壁には農業用の黒マルチシートと鳥よけのネットを重ねて張って、まるでジャングルの原住民の住処のような菌糸培養棟が建った。
そして川浪に託されたのは、この菌床栽培を日本で普及させるという重大任務だった。

阿里山と日本の往来が度重なった。そして折しも、立ち寄った当代随一を誇る漢方薬問屋街・台北市迪化街の馴染みの薬房(漢方薬店)で、ビッグニュースに遭遇したのだ。
それは、ドイツのシュツットガルト市で開かれた世界陸上競技大会の驚くべき結果。無名だった中国女子陸上チームが、大舞台の中距離競技で、次々と金・銀・銅メダルを独占するという快挙をテレビで観たのである。

世界のメディアから「馬軍団」と呼ばれた彼女たちは、海抜3000mを超える中国青海省の青蔵高原(チベット高原)でスッポンと漢方薬のスープを食べながら、雨の日も風の日も休まず40キロを走破するという猛特訓に耐えて、鉄人となったそうだ。
「神秘」と呼ばれたその漢方薬とは、悠久4000年に亘って歴代皇帝が独占しつづけたと伝わる不老不死の上薬である。
当院の漢方医いわく「運動活性のみならず、息の病にも血の病にも効能は絶大。癌の特効薬としても名高い」と。
その漢方薬こそ、冬虫夏草・・・

「冬は昆虫だけど夏には草となって地上に姿を現す、天界に生える薬草」だそうだ。
神々しいまでのこの生薬がキノコだと聞かされて、強い衝撃に身体が震えた。
これだ、阿里山に生えるという「癌を制する薬膳キノコ」とは冬虫夏草なのだ。夢にまで見た薬膳キノコに出会えたのだ。


冬虫夏草の類は中国固有のものに非ず、阿里山でも前人未到の場所に入れば自生しているらしい。さっそく、研究所の近くの渓谷に分け入ってみた。這いつくばって探してみると、草の間に、小さな冬虫夏草らしきものを何個か発見することができた。
これを培養し菌床にして日本に送り、栽培によって発生させることが出来れば「神秘といわれる冬虫夏草が日本でも収穫できる」ようになる。

そうなれば癌患者だけでなく、喘息持ちにも、アスリートにも大きな夢と希望を与えることが出来るだろう、と喜び勇んで研究を始めた。

ところが冬虫夏草の培養は、アワビタケやエリンギのように簡単なものではなかった。過去には何のデータもないのだから、行き詰まると自分で乗り越えて行かねばならない、それこそ前人未踏の領域である。
冬虫夏草は昆虫に寄生するキノコだから昆虫に冬虫夏草の組織を植え付ければよいだろうが、どの様に工夫しても、チョロチョロと髪の毛ほどの子実体(キノコの柄の部分)しか出てこない。
こんな弱々しい子実体では、多数株に増殖(採取した子実体をもとに、培養して株数を増やす作業)大規模栽培をめざすなんて、夢のまた夢である。
求めているものは、写真で見るような、プリプリした弾力性のある冬虫夏草をこの手で出現させることにある。
進むべき道のりが限りなく遠く困難に感じられた。
喜々として取り組んだはずなのに、1年が過ぎるころには挫折感の方が大きくなって、そしていつの間にか研究が疎かになっていた。


自然界の冬虫夏草

幸いにも、キノコ菌床のビジネスは驚くほど順調だった。菌床工場が建ったのが93年、その秋には早くもアワビタケ2万菌床を栽培する基地が神戸市にできた。
残念ながらあの阪神淡路大震災の直撃で頓挫するかに見えたが、肉厚で美味しいキノコが間違いなく栽培できることが日本中に知られて、栽培希望者や販売希望者が次々と名乗り出てくれた。
川浪は「きのこ村ネットワーク」と名して、薬膳キノコの総合事業としての企業体づくりを目指していた。
日本に普及代理店も出来て、毎月6~10コンテナが阿里山から日本に出荷されようになった。
当時、日本のキノコ栽培といえばシイタケが殆どで、ホダ木に椎茸菌を打ち込んで林の中で発生させる自然栽培が主流だった。ところが、サルやイノシシの野獣被害や、あまりの重労働から作業員が減ってきて、徐々に衰退の様相を呈していたのである。

川浪が進める「菌床栽培」という栽培環境を人為的にコントロールしてキノコを発生させる技法は、野獣被害もないし、何といっても軽作業だった。それに加えてこの分野は殆ど手が付けられておらず、これから始まるといった新しい栽培法でもある。したがって、これを本格的ビジネスとして取り組んだのは、川浪が日本でも草分け的な存在ではなかろうか。
事業としての伸びしろはこれからだ。

「日本も近々、本格的なキノコの時代が来る。身体に良いいろんなキノコがスーパーマーケットの店頭に並べていて、買い物客は、体調に応じた薬膳キノコを選んで食べる。そして健康を取り戻すようになる」と、その光景を思い描いていた。
そして川浪は、勝負に出た。 
 

薬膳キノコの事業は発展を遂げた

台湾に根をおろすことを夢見た日々

台湾の南端には台北市に次ぐ第2の都市、高雄市がある。
そこには台湾M商事のトップT氏に紹介してもらった蔡明達という男がいた。
高雄市中心部の立派なビルの一角に大きな事務所を構えており、M電気グループの台湾南地区の総代理店として繁盛していた。M電機の発電機を台南・高雄・屏東周辺の漁船に装備(集魚灯仕様)させていたそうで、Mのネームバリューもあって商売繁盛していたという。
台湾のトップを決める初の総統選挙では、李登輝総統を熱烈に支援して大活躍。川浪も応援弁士として演台に立たされるなど、多くの民衆を動員する幹部であり、高雄市では若手でありながら名士の一人だった。
流ちょうな日本語を話し、白いベンツを乗り廻して羽振りがよく、人柄も申し分ない。誕生日が4ケ月違いということで、どちらからともなく「兄弟!」と呼び合ってとても親しくしていた。
そういう関係から川浪は、蔡の公司に阿里山~高雄港~日本港の物流と台湾側通関を任せて、1コンテナ(40Fリーファ)あたり50万円を彼の公司に振り込んでいた。
コンテナ代金、通関および物流費と公司の報酬で約34万円ほどでよかったのだが、残り16万円余は、近々、必要になるであろう高雄国際港に近い場所に菌糸培養倉庫を確保する資金(蔡と共同して建設する予定)として公司口座に積み立てていた。
阿里山の夏は爽やかだけど、11~3月は寒すぎて菌糸養生には適さない。保温をするとか暖房を焚くと冬場の管理が大変だし、費用も掛かる。その上に養生期間が長引く分、菌糸培養棟の建て増しも必要となってくる。
逆に暖房をしないと冬場の菌糸養生は無理だから、4月から始めると、日本に届くのが6月を過ぎてしまう。そうすると今度は日本が夏場に掛かる栽培だから、冷房をしてキノコを育てるようになる。そうなったら、あきらかに高すぎるキノコになってしまうのだ。
その点、高雄市は冬でも暖かくて、菌糸養生にはもってこいである。さらに大きな利点として、国際貿易ヤードに極めて近いから、コンテナ輸送のコストが半分以下に抑えられる。そうなると貿易数量が一気に拡大できるし、南の地方には3月から暖房なしの栽培ができる。
その上のメリットとして、蔡のファミリーに気兼ねなく、公司の一角に、川浪の台湾事務所をオープンすることが可能だ。貿易数量アップと信用拡大に向けて、これ以上の方策はないと考えていた。
次の一手として、日本の栽培者や販売代理店を台湾に招いて施設を視察させ、計画を披露し、蔡をはじめとする台湾プロジェクトのメンバーと顔合わせを兼ねた宴会を催した。
こうして信用力を高めておくと、毎月20コンテナという創業当初の目標が夢ではなくなるし、日本には「きのこ村ネットワーク」という菌床製作~物流~栽培者~販売者が一体となった大構想大組織が完成する。
そこまで達成できれば年間1億円の粗利がはじけるので、例え異国の地であっても、行き詰る心配はあるまい。
そして阿里山の雄大な自然のさ中で、台湾娘と恋をし家庭をもって、楽しく暮らせたらいいなという夢が大きく膨らんでいた。

台湾にいるときには、何の不自由も感じないほど大切にされていた。
台北の桃園国際空港に到着すれば、弟分の張英敏が新品の乗用車で迎えてくれて、阿里山にいる間も流ちょうな日本語で通訳を務めてくれた。高雄空港に着くときは、蔡明達と旨い膨湖島の海鮮料理に舌鼓を打ち、陳年紹興酒を煽って、その翌朝には蔡が運転してくれるベンツで阿里山まで送ってくれていた。
あれは、阿里山でも、灼けるように暑い夏の日だった。
蔡はとても忙しい男だから、川浪の方から気を利かせてあげて「多謝、俺は大丈夫だから兄弟は高雄に戻りなさい」と背中を押したのである。
名残惜しそうに、蔡は何度もこちらを振り返り手を振りながら走り去って行く。白いベンツの姿が見えなくなるまで見送って、それから少しばかり胸をワクワクさせながら、会議の時に通訳に来てくれる郭月秋に電話を入れてみた。
彼女は朋友たちが紹介してくれた地元の通訳で、流ちょうではないが何とか意思が通じる程度の日本語を、ゆっくりと優しい口調で話す。
阿里山の旅行社で日本人旅行者の通訳兼ガイドをしながら、父親と小さな女の子の三人で暮らしているという。
その台湾娘がここ最近は、朝早くホテルに迎えにきてくれるようになった。朝の散歩がてら、山の野菜がたっぷりの快餐食堂に連れて行ってくれて、山菜を盛りつけてくれたり漢方茶を注いだり、何かと気を使ってくれていた。

電話の向こうから、明るい声が返ってきた。
来週には桃園空港から日本に飛ぶ、と伝えると
彼女は「桃園空港まで送ってあげたい、乗用車はお兄ちゃんのを借りてくるから」というのである。
ミルクを流したように白い阿里山の朝霧(トップ画像)をくぐり抜け、台中市からしばらく海岸線を走って桃園の国際線ターミナルが近づいてきたときに、川浪は言った。
「月秋、今度帰ってきたときに乗用車を買ってあげよう。台湾で俺の送り迎えをしてほしい」
彼女の表情がパッと輝いて見えた。
台湾に来てからかれこれ7年になるのだから、自分の行きたいところに行ってみたいし、蔡兄弟や張弟に気苦労をかけることもしたくない。自家用車を持ってて郭月秋に運転させれば、その辺の気遣いが不要になるし、台湾語の通訳や翻訳にも不自由することがなくなると考えていた。
そうして付き合いを深めて、もしかしたら、この台湾娘と恋をして大自然のさ中に家を建て、山の野菜をいっぱい食べながら健康に暮らしてゆくのも楽しいかもな、と思うようになっていた。
だが、川浪の運命という強烈なまでのパワーが、この甘い夢を一瞬にして完膚無きまでに打ち砕いたのだ。
1999年9月21日未明、阿里山で未曾有の大地震が発生した。

あれは地震の前日のことだった。
台湾に戻る予定を急遽変更した川浪は、福岡空港から中国大連市に飛んでいた。
その街の中心、中山広場にほど近い博覧大酒店は川浪が大連にいるときの定宿である。
何故かその夜は、ドクドクと心臓の動悸が耳について眠ろうにも眠れない。
朝4時を過ぎると、ホテルの裏通りには朝市が立ち始めて、喧噪から完全に目が覚めた。
「やっと5時か、ニュースでも見るか」
テレビをつけてNHK海外プレミアムにチャンネルを合わせると、いきなり大きな字幕が飛び込んできた。
「台湾で大地震!」
台北の松山空港近く、13階のマンションが陥没した大穴の中にゆっくりと傾いてゆく衝撃の映像が映し出された。
何だこれは、もの凄い地震じゃないか。胸騒ぎの原因はこれだったのか・・・
テレビを食い入るように見ていると、次第に震源地が明らかになってきた。どうでも阿里山を縦断する車籠埔(チェロンプ)断層が滑ったらしい。
「なんということだ」と、川浪は飛び起きた。
震源はまさしく培養施設の近くではないか。ジュジュ(集集)鎮とプーリ(埔里)鎮のほぼ中間あたり、断層に沿って亀裂が走って、地盤には高さ1mに及ぶ段差が発生しているという。
急遽、福岡を経由して台湾に向かう。

台北蒋介石国際空港に着くと、迎えに来てくれた張弟の車に乗って台中市を経由、阿里山方面に向かう。台中の東方、草屯鎮から左に大きくカーブして山道に差しかかるが、その向こうに数多くのバリケードが行く手を遮断して行き止まりになっている。
他のルートにも回ってみたが全て行き止まりで、とても阿里山の麓まで辿り着きそうもない。少しでも震源地に近づこうと脇道を走った川浪たちは、変わり果てた地獄の光景を目にした。
ほんのすぐ先、左手の山肌の木も草も崩れて黒い岩肌が剥きだしになり、道路ともども、ずり落ちて川が埋まった様子が目に飛び込んだ。川沿いの集落はこの土の下になったのだろうか、多くの人が生き埋めなったのかもしれない。
こんな状態だから、乗用車で先に進むことは不可能だろう。震災地に近い街に住む朋友たちに被害が及んでないことを祈りながら携帯電話を架けてみても、阿里山の朋友だけでなく高雄にいるはずの蔡明達にも電話が繋がらない。
山を歩いて下ってくる人々の情報をつなぎ合わせてみると、培養施設のある地区は被害がとても大きく、田畑は流れを変えた河川に呑まれ、跡形もなく消えているという。
どうすれば良いのか・・・、頭の中が真っ白になっていた。あまりの急変に、思考がついていかなかった。せめて蔡明達にでも相談できたら少しは安心できるし、いろんな情報も知ることができて頭の中の整理がつくのだが。
どうしょうもないほど苛々がつのった、そして覚悟を決めた。
「多謝、張弟は台北に戻ってくれ」
「えっ、お兄さんは、どうされたいですか?」
「歩いて行くから、心配しないで・・・」
ここで引き返すと阿里山の全てを失うのでは、と感じていた。7年におよぶ努力と菌床製造の基地、それと日本各地に輸出するための菌床数万個が、菌糸養生棟で眠っている。事務棟2階の研究室にはフロッピーディスクに入れた資料も、協力してくれた朋友たちと集めた記録も。
それに、車を買ってあげると約束したあの台湾娘のことも気にかかる。
たとえ大被害でも、水没してても構わないから様子を見たい。どこかで苦しんでいるのではないか探し出してやりたい。怪我はないのか生死を確認したい、泥だらけになった身体をしっかりと抱いてやりたい。
阿里山には壊したくない、失いたくない、大切な想いがたくさん詰まっているのだから。
何としても行かなければならない、よし、行こう。
「無理ですよ、この様子だと2日歩いても着けません」
背中を引くように、張弟の激しい声が飛んできた。
跳ねのけるように歩を進めたその時、左耳に鋭い虫の羽音を感じた。とっさに左手で払ったその時に、チクッと縫い針で刺されたような鋭い痛みが走った。
クソッ、ハチに刺された。
猛烈な痛みが襲ってきて立っておれず、耳を抑えて両膝をついた。
「お兄さん、やめてください無理ですから」と車から出てきた張は、川浪を引っ張って車に押し込んだ。
確かに言うとおりだ、山を下ってくる人は見かけるけど山に歩いて上がる人はいない。それにしても痛すぎる、早く処置しなくては腫れがどんどんひどくなる。
「もう今日は飛行機がないから、取りあえず台北で泊まりますよ。ちゃんと治療をしてから、それから対策を考えましょう」という張の意見に従う以外になかった。いや、あれこれ方法を考えるというよりも痛みに耐えるのが精一杯だった。
夕闇が迫るなか、台中市街地に戻って薬屋で痛み止めを処方し、患部に湿布薬を貼ってもらった。そしてラッシュの道を台北へ、通常ならば2~3時間で台北に着くのに、ホテルを見つけてもらって張と別れたのは11時をまわっていた。
高雄の蔡明達と電話が繋がったのは、夜12時をまわった頃のように思う。いつもは明朗な蔡の第一声が「兄弟、大変なことになりました」と震えていた。
それは地震の恐怖からだと思った。
少しの間をおいて、低い消え入りそうな声が続いた。
「私、倒産しました。漁船の発電機、リコールがたくさん出てね、M電気が無償修理してくれると言ったね。でも、何もしてくれないね。だから私の公司が弁償しました。先月が300隻ぐらい弁償したかな、もうお金がなくなったし、公司も閉めることにしました。
ごめんなさい、兄弟の預金使いました。必ず立ち直って返しますから、許してください」
健気だった蔡明達が、電話の向こうで声を詰まらせて泣いていた。
思ってもみなかった展開に、ただただ言葉を失った。預けていた金のことではない。
ほんの1週間もたたない間に、台湾が、そして川浪の周りがひっくり返るような大どんでん返しが起きている、あまりにも衝撃的すぎる現実にである。
呆然とテレビに目をやった。
阿里山周辺の被害状況が写しだされ、政府の幹部らしき男がインタビューに答えて「復興には最低でも3年、いや5年は掛かる」と悲痛な顔で叫んでいるようにみえた。
ハチに刺された腫れが耳から首、そして喉にまで広がっていた。固形物が喉を通らず、仕方なくよく冷えたビールを少しずつ口に含み、何度も何度も流し込みながら眠れぬ夜を過ごした。

翌日、張弟が迎えに来たのは正午だった。
「大丈夫ですか、かなり腫れてますよ」
「大丈夫だ、阿里山に連絡できたかい?」
「まだ、電話が通じません」
これでは台湾にいても何もできない。取り敢えず午後4時の中華航空で福岡に向かおう。
午後2時、桃園国際ターミナル入口の真ん前に車を横付けしてもらって、チェックインカウンターに向かって倒れそうな身体を必死に耐えながら歩いた。
「後で阿里山に行って状況を見ますから、日本に帰ってから電話してくださいね」と、張弟は車のドアサイドに立って、何度も何度も手を振りながら見送ってくれていた。
そしてビル入口のガラス越しに「何かあったら、これしてくださいね」と、親指と小指を広げて受話器のように耳にあてて、メッセージを送ってくれた。
その時には、川浪も張弟も、これが長きの別れになろうとは思ってもいなかった。


遠のいてゆく冬虫夏草の夢

往復チケットを買ってFUKUOKA行きのカウンターに並び、しばらくするとチェックインの順番がやってきた。受付女性が怪訝そうな表情でチケットを見ながら、コンピューターを叩いた。そして川浪の顔を覗いては、電話で何やら話をしている。
どうしたんだろう、何か問題でも・・・
電話を切った受付女は川浪を正面から見て「ウエイトアモーメント」と言いながら、自分の耳の辺りを指さしそして手を横に振った。
「その腫れは何なの?」
「ミーフェンに刺された」
女は眉間に深いシワを作り、腕時計を見ながら「メディカルオフィス」と言って立ち上がった。
どうでも、この腫れのせいで飛行機に乗せるのを躊躇しているのかもしれない。上空で気圧が下がると、腫れが爆発するかもしれないと心配してくれてるんだろう。だから空港の医者に検診させてから、乗せるかどうか決めようとしているのかもしれない。
カウンターから出てきた女は、川浪の腕に手を当てて促すように歩き始めた。
医務室は空港ビルの1階、しばらく歩くとその奥にあった。誰もいない薄暗い部屋の診察台に川浪を寝かせた女は、5分くらいか、携帯電話で早口にしゃべり、つづいて「ドクターが来る、ここで待って」とぶっきら棒に言い残して部屋を出て行った。
火照った身体に冷んやりと心地よいベッドの感触が伝わってきて、静かに目を閉じた。

何やら話し声が聞こえる、ここは何処だろう。映像のピントがだんだんと合ってくるように、朦朧とした頭がゆっくりとクリアになってゆく。どうでも眠っていたようだ。
真っ暗な部屋の周りを見渡すと、薄明りの廊下を行き過ぎる数人の話し声が聞こえた。
ん、台湾語・・・?
次の瞬間、ここが台湾で、空港で、医務室で、診察台で眠ったんだと気がついた。
何時なんだ?
飛行機の出発時間が迫ってるじゃないか、急いでチェックインカウンターに戻らなければ飛行機に乗り遅れる。
飛び起きて医務室を出た。
暗がりの中に、点々と道標のように裸電球が灯っていた。寝起きのよろける足で出発ロビーをめざしたが、ガランとしてほとんど人影が見当たらない。
時計を見ると、すでに19時を回っていた。ということは、5時間以上も眠ってたことになる。
冗談だろう、とっくの昔に飛行機が出てるじゃないか。何んで起こしに来ないのだ。
FUKUOKA行きカウンターには勿論、人っ子一人いないし、チケットを売てた中華航空公司のオフィスも閉まってる。
どうなってるんだ、バッグやチケットは何処にあるんだ?
不安に駆られて、携帯電話を探そうとした。
「ない」と、思わず小さく叫んだ。
そうだった、携帯電話は盗られたらいけないからと旅行バッグの上のポケットにしまいこんで、ダイヤルロックをしたんだった。
誰もいない外国の空港、何が何かさっぱり理解できなかった。張弟に電話したいけど、電話番号はモトローラの携帯電話に記憶させてて覚えていない。持っているのは、身につけていた物だけ。パスポート、それと10万円ほどの台湾ドルと日本円がズボンのポケットに入っている。
目の前が真っ白になった。
不安が一挙に襲ってきて、倒れそうになる。そういえば昨夜から食事らしきものは取っていなかった。ビールと今朝も昼も、ニューローメン(牛肉麺)の汁(つゆ)を流しこんだだけだった。
空港近くにホテルを見つけなければ、朝になったら、あのカウンター女を探し出して旅行カバンのありかやチケットのことを質さねばならない。
重い脚を引きずりながら空港を出ると、ホテルは進入道路沿いに見つかった。粗末なレストランで、またもや牛肉麺を注文して麺汁とビールを飲んでから部屋に上がって泥のように寝た。

頭にきていた、無性に腹が立っていた。早朝から目覚めて、朝9時には出発ロビーに着いて中華航空公司のオフィスに入り、喉の痛さに耐えながら声を荒げた。
「昨日の午後2時すぎ、福岡行きカウンターにいた受付女性を探してくれ。俺のチケットや旅行カバンを何処に持って行ったんだ?」
別室に通されしばらく待たされると、日本語の通訳と男の職員がやってきた。
昨日の成りゆきを話して、福岡までのチケットと黒革張りで車輪が4つついた旅行カバンだから探してくれ、と迫った。
「旅行カバンは福岡空港に着いているかもしれません。日本に連絡して調べます」と、チケットについては午後2時過ぎの販売記録が残っているから再発行しますという。
ならば仕方があるまい、眠ってしまったのは自分なんだから、これ以上怒るわけにもいくまい。福岡空港について旅行バッグを受け取れば、もうそれで良いのだと思っていた。
そして「ドクターを呼んでほしい、この腫れを見せて乗れるかどうか判断してほしい」とも頼んだ。自分では腫れが少し引いてきているし、声も何とか発声できるので、今日は大丈夫だと早く確認したかった。
それにしても出発まで長い待ち時間がある。何か食べたい、何でもいいから固形物を胃の中に詰め込みたいと願った。
待つこと1時間。
担当者と通訳が戻ってきて、応接室の入口に立ったままで「福岡空港に連絡したけど荷物は届いてません」と言うのである。
続いて、チェックインして荷物をお預かりしたらカバンに貼るシールとカバンの取っ手に付ける荷物番号が入った帯符、さらに座席指定番号と荷物番号が刻印された航空券が発行されるはずですと。そして「あなたはチェックインしていません」と言うのである。
思い出してみると、確かにその通りだった。乗券はもらってないし荷物の引換券も受けとった記憶がない。
「じゃあ、昨日の受付女をここに連れてきてくれ。カバンは何処に持ってったかと質してくれ、カウンターの中の何処かに置いてるんじゃないのか」と。
「昨日の担当者は今日は公休をとってます。連絡しましたが、カバンは知らないと言いました」
なんということだ、ちょっと無責任じゃないのか、諦めろって言うのか?
担当者は困った顔で下を向いた。応対した受付が知らないというものを、私に言われても分かりません、と言いたそうな顔だ。
そうだろう、いくら怒ってみても出てくるものではない。荷物は受付けてないのだから、それは確かに受付の責任でもない。ただ単に、大切なカバンを受付カウンター付近で紛失した、ということなのだ。
川浪の心を見透かすように、通訳は柔らかな口調で「どうされますか、今日も飛行機に乗らずに荷物を探しますか?」と聴いてきた。

あのカバンは俺の事務所なんだ、台湾でも日本でも傍らにあって、台湾ビジネスや日本普及に必要な数々の資料や名刺の束も、それと台湾で使っているモトローラ社の黒い携帯電話も入っている。その電話には、大切で懇意な朋友たちの電話番号が記憶されており、阿里山の事務所が崩れてしまった今では、これを失うことは台湾に築いた人間関係を全て失うことにもなってしまう。
そんな大切なものを置き去りにしたまま、川浪は「今日帰る」と絞りだすように返事を返した。
いやいや、明日も探したほうが好いのでは?
心の中では、確かに躊躇していた。
しかし川浪は「もう台湾にはいられない」と、つぶやいた。台湾にい続けると、もっともっと厳しい仕打ちが待ち受けているような、得体の知れない恐怖を感じていたからだ。

「タンッ」と鈍い音を立てて、飛行機の車輪が桃園国際空港の滑走路を蹴った。夕陽を浴びて眼下にキラキラと輝く海岸線を追っかけながら、川浪の心は複雑だった。
「もう、この景色を見ることもないような気がする。これが見納めかもしれないな」と感じていた。
何かが狂っている。
不思議なほどに、大好きな台湾から川浪を引き剥がそうとする巨大なパワー。
前進しよう、もっと深入りしようとする気持ちを拒否するかのように、激しい手段で阻止している。
「命からがらの脱出だ」
7年に亘って築いてきた台湾プロジェクトがわずか一夜にして消え、阿里山に築いたビジネスも人脈も、膨らんでいた甘い夢も、高雄や台北の固い友情も、そして将来も、この全てが一瞬のうちに木っ端微塵にはじけて消えた。
粉々に打ちのめされ、私財を失い、ハチに刺され、その上でさらに台湾の想い出までも残らず剥ぎ取ろうとする巨大すぎるパワー。
道祖神が下した罰だというのか。
何の罪なんだ!
俺は何一つ間違いを犯していない。何よりも友情を大切にして、朋友たちには限りなく大きな夢と希望を与えてきたじゃないか。
それなのに、なんで台湾の神が、この川浪を追い払おうとするのか。
何故なんだ・・・
心の中で大きく燃えさかっていた台湾の灯が、否応なく、小さく縮んで遠のいていった。 

 台湾アロー
暗闇に輝いた金色の光|中国編につづく




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冬虫夏草でがんにリベンジ|台湾編
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