冬虫夏草の栽培法を確立|川浪開発記







    
     台湾阿里山の夜明け
冬虫夏草台湾編>中国編日本編

癌にリベンジが始まった(台湾編)

 
漢方生薬の本場中国で「神秘」といわれ、4000年もの長きにわたって輝き続けた冬虫夏草。日本で初めて大規模人工栽培に成功した川浪が冬虫夏草の研究に取り組んだのは、深い悲しみの出来事がきっかけだった。

肝臓がんの父親にリベンジを誓う

あれは、今から30年ほどさかのぼる昭和57年春のことだった。父親が「身体に鉛が入ったように重い」と不調を訴え、すぐに検査をしたところ肝臓癌、しかも余命3ヶ月という厳しすぎる診断である。
旧満州(中国遼寧省鞍山市)に生まれ育ち、終戦1年後、いわば満州日本人のしんがりとして日本の地を踏み、広島県庁に勤める。
妻(母親)方の縁を頼って、広島県の田舎町に仮住まい。往復3時間を越すという道のりをバスで通いながら、原爆で廃墟と化した広島の復興に骨身を削った。
建設物価高騰に伴う復旧予算の不足を埋めるべく東京に出向いて中央省庁と折衝し、広島にいるときは価格を抑えるべく業界団体と交渉するという重要任務に就いた。
無理に無理が重なって肝硬変を患って、以来25年間、ずっと病床にあった父親。
長生きしてもらいたい、大好きな広島カープ観戦や温泉旅行にも行ってもらいたいの一心から、必死に癌を克服できる「何か」を探し求めた。
インターネットのない時代だから、情報を集めるのに随分と苦労した。丸山ワクチン、抜毒丸、ビワの葉、クマザサなどいろいろと試みたが、まるで坂道を転げるように病状は悪化して、入院45日目の4月26日早朝に永眠、享年67才。
「何もしてあげられなかったね。引き続いて癌を克服する何かを探して、必ずや、癌にリベンジしてみせるから成仏してください」と涙をこらえ、川浪は静かに眠る父親に誓いを立てた。

それから4年、日本経済はいわゆる「バブルの崩壊」で失速の最中だった。建設土木・建機・設計・不動産・バイオ開発などの事業を多角経営していたが、突如として誰も予測しなかった大転換(詳しくは後記)を図ることとなり、役員会で辞意を表明。全権・会社資産の全てを実兄に譲り、退路を断って、癌に打ち勝つ「何か」を探す旅に出る。
キノコ菌が癌を克服するかもしれないという情報を伝え聞いて薬膳キノコの研究を思い立ち、まず最初に足を向けたのが、4000mに届く山々がそびえる台湾だった。
この地には2年前の40才の時に台中市の養鶏組合からの要請で、傘下会社が研究する培養酵母菌(梅の切株に繁殖する酵母)を試験供給してあげた縁があった。その筋から調べてもらうと、薬膳キノコの研究を手伝ってくれる研究所が阿里山にあるという。
早速、キノコのメッカといわれる阿里山に向かうことになり、紹介された山深くのキノコ菌研究所に入った。英語も台湾語も満足に喋れない男がたった一人、手探りで研究を始めることとなったのが42才のときである。

台湾では、日本の運転免許では運転できない。電車もバスもない山奥で、知り合いもいないからホテルも探せない。幸いなことに、研究所には守衛が寝泊まりしていた部屋があるという。したがって、そこに泊めてもらうより他に道がなかった。もちろん、人里離れた施設だから、夜になると人っ子一人いなくなる。
広島や博多の繁華街、流川や薬研堀そして中洲で華美な夜を過ごしていた男が、ただ一人、異国のしかも人里離れた山奥の、暗く寂しい施設の小部屋で長い夜を過ごすことになる。
日本語のテレビも新聞も、日本料理も、日本語を喋る相手もいない、もちろんインターネットも普及していないという孤独で暗黒の時間。1週間もたたないうちに、あまりの寂しさに気が狂いそうになる。

阿里山の夜空は、あまりにも暗い。工場群から排出される環境を度外視したバイ煙で、自然豊かなこの地でも輝く星空が失われていた。重たい静寂の中で時折、木の葉が擦り合う音が無数に重なって、ドド~と響く山鳴りとなる。
そんなある夜、遙か先に、赤いランプが揺れながらゆっくりと停まった。自動車のオーディオからだろうか、耳懐かしいメロディが流れてくる。
透きとおった美しいメゾソプラノに心が震え、窓に走り寄ってガラスに耳を押しつけ、脳裏に刻まれていた日本語の歌詞をなぞった。

「夜の新宿裏通り
 肩を寄せ合う とおり雨
 誰を恨んで濡れるのか 
 逢えば切なく別れが辛い
 しのび逢う恋 なみだ恋」

この歌は確か八代亜紀の・・・
中国語に吹き替えられてはいるが、あの「なみだ恋」に違いない。澄みきった歌声が深く胸に浸みていった。
やがて赤い二つの灯は、歌声とともに、揺れながら遠のいて行く。
「待て、待ってくれ、もう少し聞かせてくれ」
錆び付いた窓を必死にこじ開け呼び止めようとしたのだが、一陣の突風が山鳴りとなって儚い想いを掻き消してゆく。
胸の奥に仕舞い込んでいた郷愁と我が身の切なさが涙となって溢れ出し、頬を伝って暗いガラスを濡らした。親父の死にもじっと耐えていた男の悲しみが、一挙に堰を切った。 


夢に見た薬膳キノコは冬虫夏草

それから2ヶ月、阿里山の中腹にある田舎町の小さな旅社(旅館)にベースを移した頃から、川浪は村の主役になっていた。毎晩のように、周辺の若者が迎えに来ては近くの居酒屋に行き、陳年紹興酒にライムを搾って酌み交わし、騒いだ。
施設の暗闇で聴いたあの「なみだ恋」は、街角のどの酒場でもよく耳にした。
 春季里我喜欢绵绵细雨
 雨中我有多少美丽的回忆
 你和我初次相遇 就在小雨里
 淡淡一笑 我俩开始 建立了友谊
 到如今我还觉得甜蜜
大ヒットを続けるこの曲は、鄧麗君(テレサ・テン)が北京語でリリースした「甜蜜的小雨」だと分かる。聴こえてくる度に、とっくに忘れたはずの郷愁が膨らんできて、眼の奥が緩んだ。

そして半年、結果的に、気心を通じ合った仲間と共同でキノコ菌培養研究所を立ち上げることになる。阿里山に自生するキノコを培養(1株のキノコから数百株の優秀なキノコを発生させる技術)し、菌床(キノコを発生させる栄養塊)に仕立てて日本に輸出するというビジネスが目的だった。

広々とした畑の一角に用地を確保して、菌床製造に関する費用は台湾の友人らが出資し、菌糸育成(菌床に菌株を植えこんで菌糸が蔓延するまで寝かせる)のためのハウスというか倉庫というか、については川浪が建てることとなった。
朋友たちは川浪に資金がないのを見越してか、皆んなで廃材を持ち寄り、棟上げをして、屋根には分厚く茅を吹き、壁には農業用の黒マルチシートを張って、まるでジャングルの原住民の住処のような菌糸培養棟が建った。

そして川浪に託されたのは、この菌床栽培を日本で普及させるという大役だった。
当然のように、阿里山と日本の往来が度重なり、そして折しも立ち寄った世界随一を誇る漢方薬問屋街・台北市迪化街の馴染みの薬房(漢方薬店)で、人生を大転換させるビッグニュースに遭遇したのだ。
それは、ドイツのシュツットガルト市で開かれた世界陸上競技大会の驚くべき結果。
無名だった中国女子陸上チームが、大舞台の中距離競技で次々と金・銀・銅メダルを独占するという快挙を、テレビで観たのである。

「馬軍団」と呼ばれた彼女たちは、海抜3000mを超える中国青海省の青蔵高原(チベット高原)でスッポンと漢方薬のスープを食べながら、雨の日も風の日も休み無く40キロを走破するという猛特訓に耐えて鉄人となったという。
「神秘」と呼ばれたその漢方薬とは、悠久4000年に亘って歴代皇帝が独占しつづけたと伝わる不老不死の上薬である。
当院の漢方医いわく「運動活性のみならず、息の病にも血の病にも効能は絶大。癌の特効薬としても名高い」と。
その漢方薬こそ、冬虫夏草・・・

「冬は昆虫だけど、夏には草となって地上に姿を現す摩訶不思議な生薬」だそうだ。神々しいまでのこの生薬がキノコだと聞かされて、強い衝撃に身体が震えた。
これだ、阿里山に生える癌を消滅させる薬膳キノコとは冬虫夏草なのだ。遂に、夢にまで見た薬膳キノコに出会えた。


冬虫夏草は中国固有のものではなく、阿里山でも前人未到の場所に入れば自生しているという。さっそく、研究所の近くの渓谷に入ってみた。這いつくばって探してみると、草の間に、小さな冬虫夏草らしきものを何本か発見することができた。これを培養し菌床にして日本に送り、栽培によって発生させれば「神秘といわれる冬虫夏草が日本でも収穫できる」ようになる。
そうなれば癌患者だけでなく、喘息持ちにもアスリートにも大きな夢と希望を与えることが出来るだろう、と喜び勇んで研究を始めた。

ところが、冬虫夏草の培養はアワビタケやエリンギのように簡単なものではなかった。過去には何のデータもないのだから、行き詰まると自分で乗り越えて行かねばならない、それこそ前人未踏の領域なのである。
冬虫夏草は昆虫に寄生するキノコだから昆虫に冬虫夏草の組織を植え付ければよいのだろうが、どの様に工夫しても、チョロチョロと髪の毛ほどの子実体(キノコの柄の部分)しか出てこない。
こんな弱々しい子実体では、多数株に増殖(採取した子実体をもとに、培養して株数を増やす作業)して大規模栽培をめざそうなんて、夢のまた夢である。
求めているものは、写真で見るような、プリプリした弾力性のある冬虫夏草をこの手で出現させることにある。
進むべき道のりが限りなく遠く、困難に感じられた。
喜々として取り組んだはずなのに、1年が過ぎるころには挫折感の方が大きくなって、そしていつの間にか研究が疎かになっていた。


幸いにも、キノコ菌床のビジネスは驚くほど順調だった。日本に代理店も出来て、毎月6~10コンテナが阿里山から日本に出荷される。
当時、日本のキノコ栽培といえばシイタケが殆どで、ホダ木に椎茸菌を打ち込んで林の中で発生させる自然栽培が主流だった。ところが、サルやイノシシの野獣被害や、あまりの重労働から作業員が減ってきて、徐々に衰退の様相を呈していたのである。

川浪が進める「菌床栽培」という、栽培環境を人為的にコントロールしてキノコを発生させる技法は、野獣被害もないし、比較すると軽作業でもあった。それに加えてこの分野は殆ど手が付けられておらず、これから始まるといった新しい栽培法である。したがって、これを本格的ビジネスとして取り組んだのは、川浪が日本でも草分け的な存在だったようである。
事業としての伸びしろはこれからだ。

「日本も近々、本格的なキノコの時代が来る。身体に良いいろんなキノコがスーパーマーケットの店頭に並んで、大衆は、体調に応じたキノコを選んで食べることで健康を取り戻すようになる」と、その光景を思い描いてみた。
そして川浪は、50才を期に勝負に出た。


阿里山でチャレンジした冬虫夏草

台湾の南端には台北市に次ぐ第2の都市、高雄市がある。そこには台湾M商事のトップT氏に紹介してもらった蔡明達という男がいた。
市内中心部のビルの一角に大きな事務所を構えており、M電気グループの台湾南地区の総代理店として繁盛していた。M電機の発電機を台南、高雄周辺の漁船に装備(集魚灯)させていたそうで、Mのネームバリューもあって、よく売れていたという。
流ちょうな日本語を話し、白いベンツを乗り廻して羽振りがよく、人柄も申し分ない。誕生日が4ケ月違いということで、どちらからともなく「兄弟!」と呼び合ってとても親しくしていた。
そういう関係から川浪は、蔡が経営する公司に阿里山~高雄港~日本港の物流と台湾側通関を任せることにして、1コンテナ(40Fリーファ)あたり50万日本円を彼の公司に振り込んでいた。
コンテナ代金、通関および物流費と公司の報酬で約34万円ほどでよかったのだが、残り16万円余は、翌年にでも必要になるであろう高雄国際港に近い場所の菌糸培養倉庫改装資金(蔡と共同して建設する予定)として公司口座に積み立てた。
阿里山の夏は爽やかだけど、11~3月は寒すぎて菌糸培養には適さない。保温をするとか暖房を焚くとかで冬場の管理が大変だし、培養期間が長引く分、菌糸培養棟の建て増しも必要となる。
その点、高雄は冬でも暖かくて、菌糸培養にはもってこいである。さらに大きな利点として、国際貿易ヤードに極めて近いから、コンテナ輸送の費用が半分以下に抑えられる。そうなると貿易数量が一気に拡大できるし、その上に、蔡のファミリーに気兼ねなく公司の一角に、川浪の台湾事務所をオープンすることが出来る。貿易数量アップと信用拡大に向けて、これ以上の方策はないと考えていた。
次の一手として、日本の栽培者や販売代理店を台湾に招いて施設を視察させ、計画を披露し、蔡をはじめとする台湾関係者と顔合わせを兼ねた宴会を催した。
こうして信用力を高めておくと、毎月20コンテナという創業当初の目標が夢ではなくなるし、日本には「きのこ村ネットワーク」という大構想大組織が完成する。
そこまで達成できれば年間1億円の粗利がはじけるから、例え異国の地であっても行き詰る心配はあるまい。そして阿里山の雄大な自然のさ中で、台湾娘と恋をし家庭をもって楽しく暮らしたいなといった夢が大きく膨らんでいた。

台湾にいるときには、何の不自由も感じないほど大切にされていた。桃園国際空港に到着すれば、弟分の張英敏が車で迎えてくれて、阿里山にいる間も流ちょうな日本語で通訳を務めてくれた。
高雄空港に着くときは、蔡明達と膨湖島の海鮮料理に舌鼓を打ち、旨い陳年紹興酒を煽って、その翌朝には、蔡が運転して阿里山まで送ってくれる。
阿里山も、灼けるように暑い夏の昼過ぎだった。
蔡はとても忙しい男だから、気を利かせて「多謝、俺は大丈夫だから兄弟は高雄に戻りなさい」と背中を押したのである。
名残惜しそうに、蔡は何度もこちらを振り返りながら走り去っていった。それから、少しばかり胸をワクワクさせながら、会議の際に通訳に来てくれる郭月秋に電話を入れてみた。
彼女は朋友たちが推薦する地元の通訳で、流ちょうではないが、何とか意思が通じる程度の日本語を優しい口調で話す。阿里山の旅行社で日本人旅行者の通訳兼ガイドをしながら、父親と小さな女の子の三人で暮らしているという。
その台湾娘が、ここ最近は、朝早くホテルに迎えにきてくれるようになった。朝の散歩がてら、山の野菜がたっぷりの快餐食堂に連れて行ってくれて、野菜を盛りつけてくれたり漢方茶を注いだり、何かと気を使ってくれる。
電話の向こうから、明るい声が返ってきた。
「来週には桃園空港から日本に飛ぶよ」と伝えると「桃園まで送ってあげたい、乗用車はお兄ちゃんのを借りてくる」というのである。
・・・ミルクを流したように白い阿里山の朝霧をくぐり抜け、台中市からしばらく海岸線を走って桃園の国際線ターミナルが近づいたときに、川浪は言った。
「今度帰ってきたときに、乗用車を買ってあげよう。阿里山で俺の送り迎えをしてほしい」
彼女の表情がパッと輝いた。

台湾に来てからかれこれ6年になるのだから、自分で自分の行きたいところに行ってみたいし、蔡や張兄弟たちに気苦労をかけることもしたくない。自家用車を持って郭月秋に運転させればその辺の気遣いが不要になるし、台湾語の通訳や翻訳にも不自由することがないと考えた。
そうして付き合いを深めて、もしかしたら、この台湾娘と恋をして、大自然のさ中に家を建て、山の野菜をいっぱい食べながら健康に暮らしてゆくのも楽しいかもなと思うようになっていた。
だが「運命」という強烈すぎるパワーが、この甘い夢を一瞬にして、完膚無きまでに打ち砕いた。99年9月21日未明、阿里山で未曾有の大地震が発生したのである。

地震の前日、台湾に戻る予定を急遽変更して福岡空港から中国大連市に飛んでいた。
その街の中心、中山広場にほど近い博覧大酒店は川浪が大連にいるときの定宿である。
何故かその夜は、ドクドクと心臓の動悸が高まって眠ろうにも眠れない。 朝4時になると、ホテルの裏通りには朝市が立ち始めて、その喧噪から完全に目が覚めた。
「やっと5時か、ニュースでも見るか」とテレビをつけてNHK海外プレミアムにチャンネルを合わせると、いきなり大きな字幕が飛び込んできた。
「台湾で大地震!」
台北の松山空港近く、13階のマンションが陥没した大穴の中にゆっくりと傾いてゆく衝撃の映像が映し出された。
「何だこれは、もの凄い地震じゃないか。胸騒ぎの原因はこれだったのか・・・」
テレビを食い入るように見ていると、次第に震源地が明らかになってきた。どうでも阿里山を縦断する車籠埔(チェロンプ)断層が滑ったらしい。
「なんということだ」川浪は飛び起きた。震源はまさしく培養施設の近くではないか。
ジュジュ(集集)鎮とプーリ(埔里)鎮のほぼ中間あたり、断層に沿って亀裂が走って、地盤には高さ1mに及ぶ段差が発生しているという。
急遽、福岡空港を経由して台湾に飛んだ。
台北から迎えに来てくれた張英敏の車に乗り、台中市を経由して阿里山方面に向かう。草屯鎮から先は山道に差しかかるが、その向こうに数多くのバリケードが行く手を遮断、行き止まりになっている。
他のルートにも回ってみたがどこも行き止まりで、とても阿里山まで入り込めそうもない。
少しでも震源地に近づこうと脇道を走った川浪たちは、変わり果てた地獄の光景を目にした。
ほんのすぐ先、左手の山肌の木も草も崩れて黒い岩肌が剥きだしになり、道路ともども、ずり落ちて川が埋まった様子が目に飛び込んだ。
川沿いの集落はこの土の下になったのだろう、多くの人が生き埋めなったのかもしれない。
こんな状態だから、乗用車で先に進むことは不可能だろう。
携帯電話をかけてみても、阿里山の朋友だけでなく、高雄にいるはずの蔡明達にも電話が繋がらない。
山を下ってくる人々の情報をつなぎ合わせてみると、培養施設のあった地区は被害がとても大きくて、田畑は流れを変えた河川に呑まれ、跡形もなく消えてしまったという。
どうすれば良いのか・・・、頭の中が真っ白になっていた。あまりの急変に、思考がついていかなかった。せめて蔡明達にでも相談できたら少しは安心できるし、いろんな情報も知ることができて、頭の中の整理ができるのだが・・・
どうしょうもないほど苛々がつのった、そして川浪は覚悟を決めた。
「多謝、張くんは台北に戻ってくれ」
「えっ、お兄さんは、どうされたいですか?」
「歩いて行くから、心配しないで・・・」
ここで引き返すと、阿里山の全てを失うことになるのではと思った。6年間の努力と菌床製造基地、それと日本各地に輸出するための菌床30000個余りが、菌糸培養棟で眠っている。
研究室にはフロッピーディスクに入れた資料も、協力してくれた朋友たちと集めた記録。それに、車を買ってあげると約束したあの台湾娘は大丈夫なのか。
たとえ大被害でも水没してても構わないから、生死を確認したい、探し出したい、泥だらけになった身体をしっかりと抱いてやりたい。ここには、大切な想いがいっぱい詰まっているのだから。

架けても架けても電話が繋がらなかった。
川浪は決断した、よし、行こう。
「無理ですよ、この様子だと2日歩いても着けません」
背中を引くように、張英敏の激しい声がした。
歩を進めた丁度その時、左耳に鋭い虫の羽音を感じた。とっさに左手で払ったその時に、チクッと鋭い痛みが走った。
「クソッ、ハチに刺された」
猛烈な痛みが襲ってきて立っておられずに、耳の下を抑えて膝をついた。
「お兄さん、やめてください無理ですから」と、張は川浪を車に引っぱり込んだ。
確かに張の言うとおりだ。山を下ってくる人は見かけるけど、山に歩いて上がる人はいない。
それにしても痛すぎる、何か早く処置しなくちゃ腫れがどんどん酷くなる。
「もう今日は飛行機がないから、取りあえず台北で泊まりますよ。ちゃんと治療をしてから、それから対策を考えましょう」という張のアドバイスに従う以外になかった。いや、あれこれ考えるというよりも、痛みに耐えるのが精一杯だった。
夕闇が迫るなか台中市街地に戻って薬屋を見つけ、痛み止めを処方してもらい湿布薬を貼った。通常ならば2時間で台北に着くのに、ラッシュのせいで4時間も走らせ、午後10時すぎにホテルを見つけてもらって張と別れた。
高雄の蔡明達と電話が繋がったのは、夜11時をまわった頃だったと思う。蔡の第一声は「兄弟、大変なことになりました」と震えていた。
きっと地震の恐怖からだと思った。
少しの間をおいて、低い消え入りそうな声が続いた。
「私、先月末で倒産しました。漁船の発電機、リコールがたくさんでて、M電気は何もしてくれないね。だから私の公司、弁償しました。先月が300隻ぐらい弁償かな、もうお金がなくなったし公司も閉めることにしました。ごめんなさい、兄弟の預金も私、使いました。必ず立ち直って返済しますから許してください」
電話の向こうで、あの健気だった蔡明達が声を詰まらせて泣いていた。
川浪は思ってもみなかった展開に、ただただ言葉を失った。預けていた金のことではない。ほんの1週間もたたない間に台湾がひっくり返るような大どんでん返しが起きた、あまりにも衝撃的すぎる現実にである。
呆然とテレビに目をやった。阿里山周辺の被害状況が写しだされ、政府の幹部らしき男がインタビューに答えて「復興には最低でも3年、いや5年は掛かるだろう」と悲痛な顔で吠えていた。
ハチに刺された腫れが耳から首、そして喉にまで広がっていた。固形物が喉を通らず、仕方なくよく冷えたビールを少しずつ口に含み、何度も何度も流し込みながら眠れぬ夜を過ごした。
その翌日、張英敏が迎えに来たのは正午だった。
「大丈夫ですか、かなり腫れてますけど」
「大丈夫だよ、阿里山に連絡できたかい?」
「まだ、電話が通じません」
これでは台湾にいても何もできない。取り敢えず午後4時の中華航空で福岡に帰ることにしよう。
「後で、私が阿里山に行って状況を見てから、報告しますね」
午後2時、桃園国際ターミナルのビルの真ん前に車を横付けして、川浪はチェックインカウンターに向かって倒れそうな身体を耐えながら歩いた。弟分、張英敏は車のドアサイドに立って、何度も何度も手を振りながら見送ってくれていた。
「何かあったら、これしてくださいね」と、右手を受話器のようにして耳に充てた。
そしてその時には、川浪も、張英敏も、これが長きの別れになろうとは思ってもいなかった。


霞んでゆく冬虫夏草の夢

往復チケットを買ってから、FUKUOKA行きのカウンターに並び、しばらくすると順番がやってきた。受付女性が怪訝そうな表情でチケットを見ながら、コンピューターを叩いていた。そして、こちらの顔を覗いては、今度は電話で何やら話をしている。
どうしたんだろう、何か問題でもあるのかな・・・
電話を切った受付女は川浪を正面から見て「ウエイトアモーメント」と言いながら、自分の耳を指さしそして手を横に振った。
「その腫れは何なの?」
「ハチに刺された」
女は、眉間に深いシワを作った。そして腕時計を見ながら「メディカルオフィスに行きましょう」と立ち上がった。
どうでも、この腫れのせいで飛行機に乗せるのを躊躇しているのだろう。上空で気圧が下がると、腫れが爆発するかもしれない、と心配なんだ。だから空港の医者に検診させてから、乗せるかどうか決めようとしているのだろう。
カウンターから出てきた女は、川浪の腕に手を当てて促すように歩き始めた。
しばらく歩くと医務室があった。
誰もいない薄暗い部屋の狭い診察台に川浪を寝かせた女は、5分くらいか、携帯電話でやり取りをしていて、つづいて「ドクターが来る、ここで待って」とぶっきら棒に言い残して部屋を出て行った。

何やら話し声が聞こえる、ここは何処だろうか。
映像のピントがだんだんと合ってくるように、朦朧とした頭がゆっくりとクリアになってゆく。
どうでも眠っていたようだ。真っ暗な部屋の周りを見渡すと、薄明りの廊下を行き過ぎる数人の話し声が聞こえた。
ん、台湾語・・・?
次の瞬間、ここが台湾で、空港の医務室で、診察台で眠ったんだと気がついた。
何時だ?
飛行機の出発時間が迫ってるじゃないか、急いでチェックインカウンターに戻らなければ飛行機に乗り遅れる。
飛び起きて医務室を出た。
暗がりの中に、まるで道標のように裸電球がぽつんぽつんと灯っていた。寝起きのよろける足で出発ロビーをめざしたが、そこは、ガランとしてほとんど人影が見当たらない。
時計を見ると、すでに20時になろうとしていた。
ということは5時間も眠ってたことになる。
冗談だろ、とっくの昔に飛行機が出てるじゃないか。
FUKUOKA行きカウンターには勿論、人っ子一人いない。チケットを売る中華航空公司のオフィスも閉まってる。
「どうなってるんだ、俺のバッグやチケットは何処にあるんだ?」
不安に駆られて、携帯電話を探そうとした。
ない、そうだった、携帯電話は「盗られたらいけないから」と旅行バッグの上のポケットにしまいこんでダイヤルロックをしたんだった。
誰もいない外国の空港、何が何かさっぱり理解できなかった。張英敏に電話したいけど、電話番号はモトローラ社の携帯電話に記憶させてるから、覚えていない。持っているのは身につけていた物だけ。夏服とパスポート、それと10万円ほどの台湾ドルだ。
それに、昨夜から食事らしきものは何も喰ってなかったんだ。腫れが痛んで寝られないから、何も食べずビールを流し込んだだけだし、今朝も昼も、ニューローメン(牛肉麺)を注文して、そのスープだけをすすって呑んだ。
仕方がない、空港では寝られないから近くにホテルを見つけよう。朝になったら、あのカウンター女を探して旅行バッグの有りかや、チケットのことを質さねばならない。
重い足を引きずりながら空港を出ると、ホテルは簡単に見つかった。そしてその夜はホテルの粗末なレストランで冷たい缶ビールを買って、部屋に帰って飲みながら泥のように眠った。

頭に来た、無性に腹が立っていた。朝9時には出発ロビーに着いて中華航空公司のオフィスに入り、喉の痛さに耐えながら声を荒げた。
「昨日の午後2時、福岡行きカウンターにいた受付女性を探してくれ。俺のチケットや旅行バッグを何処に持って行ったんだ?」
別室に通されしばらく待たされると、日本語の通訳と男の職員がやってきた。昨日の成り行きを説明して、チケットと旅行バッグを探せと迫った。
「旅行バッグは福岡空港に着いているでしょう。日本に連絡して調べてみます」と。
チケットについては午後2時過ぎの販売記録が残っているから、再発行させてもらいますという。
ならば仕方があるまい、眠ってしまったのは自分なんだから、これ以上怒るわけにもいくまい。福岡について旅行バッグを受け取れば、もうそれで良いのだと思っていた。
そして、ドクターを呼んでほしい。この腫れを見せて乗れるかどうか判断してほしいとも頼んだ。自分では腫れが少し引いてきているし、声も何とか発声できるので、今日は大丈夫だと確認したかった。
それにしても午後4時の出発まで、長い待ち時間がある。何か食べたい、何でもいいから固形物を胃の中に詰め込みたいと願った。
待つこと1時間、担当者と通訳が戻ってきた。
福岡空港に連絡したけど「あなたの荷物は有りません」というのである。チェックインして荷物をお預かりしたら、バッグに貼るシールとバッグの取っ手に付ける荷物番号が入った帯符と、座席指定番号と荷物番号が刻印された航空券が発行されるはずだと。
そして「あなたはチェックインしていません」と言うのである。
確かにその通りだ、搭乗券はもらってないし荷物の引換券も受けとった記憶がない。
じゃあ、昨日の受付女をここに連れてこい。バッグは何処に持ってったか質してくれ、カウンターの中の何処かに置いてるんじゃないのかと。
「昨日の担当者は今日は公休をとってまして、連絡しましたが、知らないといってます」
なんということだ、ちょっと無責任じゃないのか、諦めるしかないというのか?
担当者は困った顔で下を向いた。
応対した受付女が知らないというものを、私に言われても分かりません、と言いたそうだった。如何に怒ったからといって出てくるものではない。
受付けてないのだから、それは確かに、受付女の責任ではない。ただ単に、あの旅行バッグは受付カウンター付近で紛失した、ということなのだ。
川浪の心を見透かすように、通訳は柔らかな口調で「どうされますか、今日も飛行機に乗らずに探されますか?」と聴いてきた。
・・・しばらく考えた。
あのバッグには、台湾のビジネスに必要な数々の資料や名刺の束も、それと台湾と日本の携帯電話。そのモトローラの電話には、台湾の懇意な朋友たちの電話番号が記憶されており、これを失うことは、台湾に築いた人間関係を全て遮断することになる。
「もう台湾にはいたくない、今日帰る」
絞りだすように、返事を返した。
いやいや、明日も探したほうが好いのでは?
心の中では、確かに躊躇していた。しかし川浪は「もう台湾にはいたくない」と再びつぶやいた。
台湾にいると、もっともっと厳しい仕打ちが待ち受けているような気がしたからだ。

「タン」と音を立てて、飛行機の車輪が滑走路を蹴った。眼下に輝く台湾の海岸線を追いながら、川浪の心は複雑だった。
「もうこの景色を見ることはないような気がする。これが見納めかもしれないな」と感じていた。
何かがおかしい、不思議でならない。
大好きな台湾から川浪を引き離そうとする、すごく巨大すぎる力が作用している。もっと深入りしよう、前進しようとする気持ちに対して、強硬すぎる手段で阻止している。
「まるで命からがらの脱出だ・・・」
6年に亘って築いてきた台湾プロジェクトはわずか一夜にして消え、阿里山に築いた基地も人脈も、膨らんでいた甘い夢も、高雄の固い友情と将来も、この全てが一瞬のうちに木っ端微塵にはじけて消えた。しかも粉々に打ち砕かれて、最期には、川浪の命までも奪おうとした。
これが神が下した罰なのか、何の罪なんだ、台湾で俺は何一つ間違いを犯していないぞ。
心の中で大きく燃えさかっていた台湾の灯が、否応なく、小さくなって遠のいていた。 


 台湾アロー
癌にリベンジ(中国編)
につづく

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癌にリベンジが始まった(台湾編)
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