冬虫夏草の大産地、西蔵高原(チベット)の争奪戦は貴重な冬虫夏草を手に入れるための壮絶な戦いでした。
両者譲らず、このままでは共倒れしまうと心配した黄帝は「あなたの薬草の知識を後世に伝えてゆこうではないか」と、炎帝に持ちかけました。
炎帝が譲歩して和解が成立し、協力一致して、体内治療に関しては黄帝内経を、外傷については黄帝外経、漢方生薬の利用法については神農本草経をまとめあげたのです。
これが漢方薬のベースとなり薬膳の基本となって、未だに中国医学の中軸となっています。
そして2000年の時が流れ、今から2500年前にさかのぼる秦王朝、万里の長城を築き、数百万という兵馬俑で西安の都を防衛した始皇帝の逸話です。

冬虫夏草が明確に歴史に登場したのは、この時が最初です。
史記118巻・淮南衝山列伝には、子供の頃から身体が弱かった始皇帝が権力を握るにつれて不老不死を強く願うようになったとあり、徐福に命じて、冬虫夏草をたらふく食べるための施設を作ろうとしていた様が記されています。
始皇帝は中国最東端に位置する天尽頭という岬に、徐福の航海の無事を祈る廟を建てて帰還を願いました。
しかし徐福は帰ってこず、失意の始皇帝は西安の都に引き揚げる途中に、49才の短い命を終えたのです。

世界の三大美女と賞せられる楊貴妃が誕生したのは西暦700年代のことです。
第16代皇帝の玄宗の皇太子である寿王の妃になったのですが、玄宗の強い要望を受けて妃になりました。
その時に、冬虫夏草と茘枝(ライチ:木の実)と阿膠(アキョウ:ロバの皮下コラーゲン)という極限の美容食を毎日のように食べさせてほしい、と願ったことは余りにも有名です。
当時は冬虫夏草を「仙草」と呼んでいましたが、楊貴妃はもう1ランク上等な「天草」を所望したともいわれており、絶大だった唐王朝も財政困難になったといます。
やがて、北方軍司令官の安禄山が謀反を起こし、西安が陥落して逃げのびる際に、近衛兵によって処刑されたと伝わっています。

時は中世に飛んで、朝鮮王朝。
第11代国王・中宗は医女・徐長今を宮廷に入れて、家族の医療を取り仕切らせたと伝わっています。
NHKが放映したドラマでは、瘡という病気に苦しんだ国王を看病するチャングムがテーマです。
瘡とは身体中に腫れ物が出来る不治の病。
内臓に根があるといわれ、切っても切ってもまた出てくる厄介な病気で、最後には内臓腫瘍となり臓器不全で死亡するケースが心配されます。
チャングムは、冬虫夏草と赤蟻を浸した酒でこの難病を鎮めようとしました。