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冬虫夏草の歴史(1)


古代の冬虫夏草

冬虫夏草と道教思想
冬虫夏草の歴史を探ってみると、4500年前の中国古代から宗教と強いつながりがあったことが分かります。まずは、前漢の時代(紀元前206~8年)に編纂された史記を参考にして、その長い時の糸を紐どいてみましょう。史記は司馬遷によってまとめられた中国最古の歴史書として有名です。紀元前2500年代の黄帝(後述)の時代から前漢の武帝に至までの31人の皇帝王侯に関する記述がなされているのですが、信憑性と正確さについてはその後の発掘や解明などでも証明されつつあり、漢族正史(正しい歴史記録)の第一にあげられる高い評価を得ています。政治家が使う「背水の陣」とか「捲土重来」などの語句は、この史記にしたためられた言葉が引用されたものです。
史記の中で、歴代皇帝の傍にあったのが道教です。道教は中国では三大宗教(道教・儒教・仏教)の一つとして、2世紀頃に中国南方から広まったといわれ、現在では中国を始め日本や韓国、台湾、東南アジア諸国で深く信仰されています。
史記に残されているのは道教のルーツで、古代中国の山岳民族に発する土着の思想(シャーマニズム)で、生物の全ては大自然の神とつながり、神と深い契り(崇拝)を結ぶことによって存在し、恩恵を受けることができるという根本理念をもったもので、方仙道と呼ばれていました。
黄河文明(仰韶文化:ヤンシャオ)が開かれたおよそ5000年前に黄河の南の山岳地帯(河北省)から始まって、以来、時の権力者が深く信仰、あるいはシャーマン(方仙道を究めた仙人)自身が、権力の座に就いたとも言われるほど、中国古代の歴史には欠かせない思想でした。
その後この方仙道は、歴代皇帝が崇拝する漢民族宗教へと発展してゆき、多くの修験者が大自然の神と契りを結ばん(崇拝)として深山に籠り、何年、何十年という過酷な修行に励んだのです。こうして大自然と向き合うことで誕生したのが太陽暦であり、気象学であり、象形文字であり、薬膳医学であり、自然哲学(五行思想)でした。これらは、方仙道を習熟した仙人(仙真)と呼ばれた一群によって下界にもたらされ、当時の文明文化の柱になっていたのですが、5000年を経た現代にまで文化・思想・学問・哲学の根本として、中国だけでなくアジア諸国に伝承されているということは、ただ驚くばかりです。日本に伝わる節句の慣わしや鍾馗さま、七福神(中国では八福神)、祖先を重んじ親子の関係や生活態度などの生きる道を教える道徳も、この道教の文化・思想が遣隋使や遣唐使によって伝承されたものと思われます。

冬虫夏草の歴史的背景
道教とともに5000年も受け継がれてきた貴重な歴史遺産に、冬虫夏草があります。冬虫夏草とは、子嚢菌類バッカクキン科の昆虫に寄生して発芽する小さなキノコですが、方仙道の道士(仙人を目指す修験者)が数年も深山に籠もって修行する間に、病気を癒し気を養える貴重な薬膳だということが分かったのでしょう。彼らは大自然の力に導かれるままに霊峰に分け入り、冬虫夏草を見つけては木の実と練り合わせて、丸薬にして事あるごとにを食しました。野菜を植えるでもなく猟をして食餌を確保するのでもないのに、常人の数倍も長生きする仙人。その生き様を知る村人は、仙人は霞を食って生きると信じていたようです。下界に戻った仙人(仙真)は腰に小さな袋をぶら下げ、ことある毎に丸薬を取りだして食する姿が人の目にとまりました。そしていつの日にか、時の皇帝が不老長生の妙薬として丸薬、すなわち冬虫夏草を求めるようになっていたのです。

仙人

仙人といえば、日本でもお馴染みですよね。先般上映され大ヒットしたレッドクリフでは、仙人修行のさ中に、蜀(三国志で有名な魏・呉・蜀)を建国した劉備玄徳から三顧の礼をもって迎えられた諸葛孔明(西暦181~234年)がいました。赤壁の合戦において曹操軍船団を焼き尽くす大風を呼びこみ、伝染病の兵隊に草汁を与えて助けるシーンが呼び物でしたが、気象を操り百草の効を利する仙人が、神とも思える働きをして皇帝を助ける好例を見たような気がします。

レッドクリフの時代より2800年ほど、時は逆行します。今から5000年も前のことですが、当時の中国は民族間の対立が激化しておりました。黄河文明を開いた漢民族に対して、南方民族の神農部族、北方にはモンゴル系の韃靼(だったん)族、西方にはウィグル系の遊牧民族が割拠して領地を拡大しており、黄河と長江に挟まれた漢民族の所領に攻め入ろうとして激しい攻防を繰り広げておりました。
話が少し横道にそれますが、この神農部族の開祖である神農さんも仙人だったようですね。中国の伝説に登場する神農さんは三皇五帝の一人で「炎帝」と呼ばれており、百草の知識を究めて諸人に医療と農耕の術を教えたといいます。神農さんはこれらの多大な功績を称えられて神農大帝と後の世まで尊称され、日本でも医薬と農業の神として祀られているほどに有名です。そして仙人のごとく、自らも薬草を重用して120歳まで生きたといわれていますが、神農さんの知識は薬膳として現在までも伝わっており、世界最古の薬膳書「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」には、その英知をとどめています。

話しを当時に戻しましょう。
神農部族を従えて漢民族を統一したのが公孫
紀元前2510年紀元前2448年)です。公孫は15歳にして中原(黄河と長江の間に広がる平野)の長となりましたが、抗争を繰り返す間に炎帝(神農さんの末裔)を従えるほどに成長して民族統一を果たし、37歳で天子の位に就いて黄帝と称されました。
黄帝は後世で中国人が崇める三皇五帝の第一人者で、文明の祖または人文の祖と称されます。中国で最初の律令国家を建設し、青銅の鋳造、五穀の栽培、絹の生産、紡績の他にも、方仙道の教示を政治に取り入れたり、これらに関する膨大な教典を後世に伝えました。なかでも、仙人たちの経験と知識を聴き取る方法でまとめられた黄帝内経は人体を科学的に説明、同じく黄帝外経には病気の治療法、さらには神農一族にまとめさせた神農黄帝食禁では、薬膳と百草の取り扱い心得を記しています。テレビの宣伝で耳にする「未病」や「薬食同源」といったフレーズも、これらの書に端を発しているものです。
こうして黄帝は中国政治文化の礎をなし、125人の実子を残して世を去りましたが、その末裔たちが後に続く「夏」「殷」「周」「秦」といった古代国家を建設していったのです。したがって歴代の皇帝は冬虫夏草を深く認識して探し求め、重用しました。この理論を裏付ける一つが、河南省の殷王朝(紀元前17~紀元前1046年)の古墳から発掘された祭祀用の壺です。その一つに仙草の文字が記されている(後述)ことから分かるように、殷の王族たちはこぞって高名な仙人を司祭として迎え入れ、仙人が集めてきた冬虫夏草を祭壇に祀って、不老長生を祈願したものと考えられます。

古代史の主役だった冬虫夏草
黄帝の時代から800年ほど進むと、時は秦王朝に移ります。衰退した周王朝を倒したのは咸陽の豪族の子で、名を政といいます。父親の死去に伴い13歳の若さで秦王に即位(紀元前246年)して秦の始皇帝と称され、存命わずか15年の間に強大な国家を建設しました。北方からの匈奴(夏王朝の残党)の侵略に備えて万里の長城を築いたり、西安に壮大な兵馬俑を残したりと、偉大な足跡を残しました。日本でも政さんが行った国家統治の方式を政治といっているように、多大な影響を与えています。
その始皇帝について、司馬遷がまとめた「史記118巻・淮南衝山列伝」には次のようなことが記録されていました。
強靱そうに思われる始皇帝ですが、実際には子供の頃からとても体が弱かったようです。したがって権力を握るにつれて、不老不死を強く願う(冬虫夏草5000年を参照)ようになりました。
そんなある日、部下に「仙草を栽培して、どんどん持ってこい」と命じたのです。国中の仙人(方士)や道士が集められましたが、仙草といえば前人未踏の霊峰にしか見られない希少なものですから、皆んな尻込みをする中でただ一人、斉国(山東省)の方士・徐福(中国では徐市)だけが申し出たのです。
「東方海に三神山あり、ここ蓬莱(ほうらい)なる地の仙人が不老不死の薬を練っていると聞きました」と奏上したのです。始皇帝はたいそうよろこんで、徐福が望むとおり金銀100貫と3000人の若い男女、採取施設を建設するための石工や大工などを用意して浙江省の寧波港より、蓬莱を目指して旅立たせたのです。しかしその後、徐福を含め誰一人として秦には帰ってきませんでした。
ここまでは史記に記されていますが、それ以降は徐福に関する記録がありません。各地に残された伝説からみると、朝鮮半島に到着して現地の薬草である岩間蘭を見つけたり、白頭山(中国名は長白山)に行ってその地の薬草に不老草の命名をしたという説、台湾に到着して山岳民族となった説、日本に来て神武天皇になった説など、様々な推察がされていますが、真実は知るよしもありません。
諸説を検証してみると、日本説よりも朝鮮半島説や台湾説のほうに正当性があるような気がします。この根拠の一つが道教の伝来です。日本への道教の伝来は、日本書紀によると西暦513年、継体天皇の年に百済(朝鮮)からもたらされたようで、それ以前には、すなわち徐福が蓬莱に渡ったとされる紀元前200年代には道教(方仙道)の記録も史跡もありません。
中国では、神武天皇になったとする説が多いようですが、徐福が権力をにぎって天皇制を始めたのなら、当然のように方仙道が国民宗教になってもよいはずですが、その当時から方仙道の痕跡も薬膳の名残もないのですから、一時的に立ち寄ったかもしれませんが、この説は否定せざるを得ないようです。
方仙道の布教の度合いを調べてみると、台湾が群を抜いています。しかも、戦乱の世で烏合参集を繰り返した方仙道ですが、その中で徐福が参加していた宗派である神仙道という名称のままで、現在までしっかりと根付いています。
そしてもう一つが、冬虫夏草を含む薬膳という食文化の存在でしょう。日本の古代には薬膳の食文化がありませんが、韓国ではNHKで放映された韓流ドラマ・チャングムの誓い(後述)でみるように皇族の間には薬膳と冬虫夏草の貴重性が受け継がれており、台湾でも薬膳が民衆の食の中心をなし、その上に、世界で最も冬虫夏草を消費する国としても有名です。
三つ目は、地形です。徐福の言う「東方海の三神山」とは、おそらくは海から観た景観のことでしょう。台湾では中国側の海から4000メートル近い玉山、雪山、合歓山という三大秀峰を仰ぎみることができますが、朝鮮半島や日本では海から見えるという三山はありません。
こういった訳で台湾説が第一候補になるのですが、これが真実であれば徐福たち一行は、台湾の高山に住み着いて外部との交流(特に漢化)の一切を避けて暮らしたに違いありません。そして山岳民族となって、独自の文化を築いたのかもしれません。


冬虫夏草の歴史考査

仙草が冬虫夏草でなくて他の薬草だったら、これらの史実が根本からくつがえります。信憑性を探るうえで参考にしたいのは、道教教典の十洲三島伝説より「そこには仙草仙芝が生え、宮閣楼台があり、仙童玉女がいて、諸々の仙真(仙人)が遊び休息する。名山大川にも風景秀麗な洞天福地があり、道教の仙真がそこで修練する」というフレーズです。同じく仙人が広めたとされる仙芝が仙草と並び称されていますが、この仙芝は、高山の絶壁の岩の割れ目から出ていて仙人が腰掛けたことが語源のサルノコシカケを指しています。
仙草が子嚢菌類バッカクキン科のキノコなら、サルノコシカケは霊芝(レイシ)という担子菌類サルノコシカケ科のキノコです。どちらも神農さんが起源となる最古の薬膳書・神農本草経に記され、同じく古代から方仙道、そして道教の司祭では飾り壺に入れて神前に供え、不老長生を願ったとされる薬膳キノコです。

仙草は時代が進むにつれて、昆虫から発していることが分かって虫草と言われる(現在も)ようになり、やがて、冬の間に昆虫に寄生して夏になると発芽してくるキノコと分かって、冬虫夏草と言われるようになりました。仙芝は七食の芝として道教教典にたびたび登場しますが、実際に自然界では紫・黒・赤・白・黄など多くの色の種類が見かけられ、まったく猿が腰掛けるような形の霊芝を見ることができます。どちらも神農本草経では上薬とされ、数千年を経た現在までもこの二つは漢方生薬の双璧として効能を明らかにしています。
こうして古代から現代にいたる5000年をたどってみると、絶賛され続けてきた生薬食材は他には存在していません。よって仙草が冬虫夏草であり、仙芝が霊芝を指していると確信するに至ったのです。


中世の冬虫夏草

楊貴妃と冬虫夏草

始皇帝が作りあげた強大な秦帝国から900年ほど経過した唐王朝に、またもや冬虫夏草が歴史にクローズアップされました。その主役は、世界の三大美女と称される楊貴妃です。
楊貴妃の実名は楊玉環、蜀国の平民の娘として生を受けましたが、幼いときに両親と死別して、叔父の家に引き取られて育ちました。ある時、西征する唐王朝の皇太子・寿王に見初められて皇太子妃となったのですが、その美しき皇太子妃に目をつけたのが寿王の父親である第6代皇帝の玄宗です。
玄宗といえば開元の治と呼ばれる善政で唐王朝の絶頂期を迎えたほどの名君で、絶対的な権力者だったのですが、楊玉環を見初めてから強引に寿王との別離を企て、彼女を道教寺院に入れて尼僧にしてしまいました。この時、玄宗は60歳、楊玉環は24歳。
1年余の時をおいて、玄宗は楊玉環を宮廷に呼び戻して正式に貴妃(おきさき)としたまではまだ良かったのですが、その寵愛ぶりが度を過ぎて、次第に国力は衰えてゆきます。
楊貴妃につながる親族を次々と政権の要職に据え、そればかりか、政治の場にも顔を見せなくなった玄宗に愛想を尽かした古来の部下が次々と離れてゆき、世は乱れて安史の乱を招くこととなったのです。
こうして玄宗と楊貴妃は蜀国に落ちて行くのですが、その途中で部下たちに争乱の責任を問われた楊貴妃は、玄宗の命令によって処刑されたのでした。
この史実は旧唐書に、そして玄宗と楊貴妃の悲恋をテーマにした白楽天の長恨歌に残されて今でも語り継がれているのですが、ここで問題なのは玄宗と道教の絡みです。
若い頃(西暦720年頃)の玄宗はむしろ仏教に傾倒していたことが、仏教僧への「度牒」という政策から判断できます。これは、道教だけでなく国家政府が仏教の僧尼にも身分証を与えるという制度で、迫害されていた仏教が厚遇される端緒となりました。
その後、西暦734年に玄宗は楊貴妃と出会っていますが、この頃より玄宗は道教に改宗して深く信仰するようになりました。彼女を道教寺院に入れることから始まり、自らは宮廷に修道院を作って天台山(浙江省の霊山)から高名な司馬承禎という仙人を招き入れ、道士になるための修練を重ねたといいます。このことは「御極多年にして長生軽挙の術を尚とぶ」と旧唐書にも記されるように、永遠の生を受けること、そして自らが仙人の列に加わりたいという道教思想に入れあげた証左です。
道教といえば、前述のように仙草や仙芝を祭壇に祀って不老長生を祈るという習慣がありますから、永遠の生を受けたい玄宗も永遠の美に授かりたい楊貴妃も、冬虫夏草を重用したであろうことは簡単に想像できます。これが後世に、楊貴妃は冬虫夏草を愛したと語られるようになった所以ですが、実際には、玄宗を道教の世界に引きずり込んで夢中にさせたのも楊貴妃かもしれません。茘枝(ライチ:木の実)や阿膠(アキョウ:ロバの皮下コラーゲン)を好んだという説もありますが、むしろ日夜、玄宗とともに祭壇に向かって祈りを献げる楊貴妃の妖艶な姿や、その後に大自然の恩恵に与ろうとして祭壇の仙草や仙芝を料理させて、二人して食す姿の方が目に浮かびます。 

次は冬虫夏草の歴史|中世から現代

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冬虫夏草の歴史|古代から中世
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