冬虫夏草でがんにリベンジ中国編 |
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暗黒の闇に輝いた金色の光 |
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中国遼寧省からの招聘 |
川浪一族と中国の縁は深い。 祖父・川浪武次は有田焼で有名な佐賀県有田町に生まれ育ち、日露戦争の終結と同時に中国大連に渡って不動産開発の事業を始めたという。満州国が建国されると、多くの日本人が満州に渡って祖父が建てたという居宅を買ったそうだ。 そして親父が誕生して5年後、大正8年に祖父は落命したといわれるが、誰も骸は見てないし死因すら分かっていない。ただ言えるのは、ただ者ではなかったということである。 親父が産まれて太平洋戦争に敗れるまで、武次と一緒に中国に渡ったという従兄弟の川浪勝一が、毎年のように、桑折箱(こうり)に詰められた満州紙幣を何個も馬車に積んで届けに来てくれたという。 そのお陰で、祖母・コトメと親父は広大な家に住んで、鞍山市にも学校通学用の別邸を持ち、使用人を5~6人も雇って何不自由なく贅沢に暮らしていた。 遼寧省のど真ん中、大石橋市(ダァシィチャオ)満鉄駅から北に馬車で1時間たらずの街(現在の海城市中小鎮付近と思われる)に生家があったと、祖母は光を失った眼に涙を溜めながら話していた。 母親の父親は、広島県警察可部署の青年幹部だったようである。 ソ連国境に入植する日本の武装移民団を警護する任を負って、黒竜江省佳木斯(チャムス)の副市長として赴任。終戦直後に南下を始めたソ連軍に楯となって入植者たちを逃がし、その後に捕まって銃殺されたと記録に残る。しかし、先に逃げたはずの祖母や母親の兄弟たち4人は、生死すら確認できていない。 中国政府共産党に川浪が招かれたのは、台湾大地震をさかのぼる2年前の97年6月20日だった。忘れもしない、その日はちょうど48歳の誕生日だった。 「中国食用菌協会で食用菌(キノコ)の世界探訪について、講演をお願いしたい」とのオファーが党幹部から寄せられて、祖先の亡霊に強く引かれるような思いで中国の土を踏んだ。 地方政府役人、共産党幹部、食用菌学者、培養技術者らで構成する組織の協会員が約300人ほど集まって「過疎地を再生する薬膳食用菌」の話しを講演して、皆さん興味深く聞いてくれた。 以降、2年続けて講演をこなして中国キノコ関係者の間では著名人になり、各地にも朋友が出来た。内蒙古政府や河南省政府からも招聘が入ってきて、川浪が訪てゆくと政府、党幹部ともに喜んでくれて、昼は政府が、夜は共産党が主宰して宴会を催してくれた。 その接待は超VIP扱いで、昼も夜も豪華料理三段重ね(回転テーブルに料理皿が並び、その皿と皿の上に二段目の料理が、またその上に三段目の料理が重ねられる、もっとも豪華な設営)の宴会を催し、五粮液(ウゥリャンイ)という最高級白酒(バイチュウ)の乾杯を、繰り返し繰り返し重ねた。こうして培った川浪と地方政府の幹部たちとは堅い信頼で結ばれ、いざビジネスが始まると、彼らがパートナーとして合作(事業協力)をしてくれる約束を取り付けていた。 台湾も中国も、川浪が提唱する「大きのこ村構想」への協力を約束してくれている。 これからは台湾~日本~中国の往来がより頻繁になるだろう。そうなると、中継点として日本にもオフィス機能が必要となる。 そして福岡空港の至近に日本オフィスを設けたのは99年7月のことで、あの台湾大地震が勃発する直前だった。 発展を続ける「きのこ村ネットワーク」日本の活動拠点として、福岡空港至近にマンションを借りた。取り敢えず大きな会議用の机と椅子6個、電話FAX兼用機、それと奥の部屋には、急の時に宿泊できるようにパイプベッドを用意した。 これからおいおい、事務用品や生活備品を揃えてゆこう・・・ 大地震の起きるほんのひと月前には、とてつもなく大きな夢を描いて、その実現に向けて邁進していたのである。 そのオフィスに、台湾から、ビジネスも夢も希望も朋友たちも失って、身も心もズタズタになった男が辿り着いた。 日中台の大きのこ村構想の軸となる大切な台湾プロジェクトを失ったダメージは、あまりにも深く大きかった。 「これから、何をしてゆけばよいのだろうか・・」 楕円形の大きな会議机に座って茫然としていると、突然、目の前に置いたFAX機がカタカタと軽い音を立て始め、書き殴ったような荒っぽい字が見えた。 FAXの送信者は、親父が生まれ育ったという大石橋市にほど近い、海城市政府の通訳代理人を務める曹彦楓からである。 「お兄ちゃんへ、全人代(日本の国会にあたる)の政策の一環として過疎地振興にキノコ事業を取り入れるそうです。是非とも海城市の政策顧問として指導してほしい。至急のお越しを待ってます。大連空港に迎えに行きます」 偶然なのかも知れないが、まるで何処かで台湾からの帰国を見ていたような、あまりにも絶妙のタイミングなのである。 海城市、この政府の青年幹部たちとはとくに親しく、幾度となく盃を酌み交わした。 海城市中小鎮政府(日本でいえば区役所)の建物は親父が産まれた家の近くだという安心感もあるような、何か懐かしい匂いのするような、何か心が沸き立つような想いも重なっていた。 断る理由など有るわけもない、川浪は勇躍、中国大連に向かった。 広大な自然と向き合いながら取り組もうとしたのが冷暖房不要シイタケ菌の研究開発である。シイタケ栽培の場合、普通であれば摂氏20~25℃でなければ発芽しない。したがって中国東北部の場合では夏が来ないと菌糸育成ができないのだが、川浪は発想の転換をした。 「中国は広い、内陸部や北部の大自然には、凍てついた氷を突き破って発芽するシイタケもあるはずだ。その菌を採取して寒冷状態で菌糸育成すれば、凍える寒さの中でもシイタケ栽培が可能になる。食用菌協会で培った朋友たちに頼んで探してもらおう」と考えた。 早々と、内陸部の政府機関の劉さんから連絡が入ってきた。 「貨山に入れば見つかりますよ、私の方で採取して培養してあげます」という。早速、乾杯を繰り返していた仲間たちとの合作が始まった。 このシイタケ菌を使えば、極寒の冬場に菌糸育成して春から夏にかけて発芽させることができる。夏を迎える時期に生シイタケを日本に輸出すれば、日本はちょうどシイタケが採れない時期にあたる。そして日本がシイタケの季節を迎えれば、こちらでは乾シイタケを作ればよい。 遼寧省・吉林省・黒竜江省・内蒙古という寒冷地4省の過疎地に、この耐寒シイタケ菌を普及して花どんこ(大分県シイタケで有名)を栽培させ日本へ輸出、乾シイタケは大連周水子空港、さらに瀋陽桃仙国際空港からほど近い場所に国際市場を開設して台湾、香港、シンガポールなどから訪れる華僑バイヤーに販売するという川浪が立案した壮大なビジネスである。 トウモロコシの生産に陰りが見えてきた寒冷過疎地の農民経済復旧はこの一手しかないと、党の幹部たちも着目してくれた大構想が、一挙に具体化することになったのである。 そして着任から数日後、地方政府が「大きのこ村構想」の事業化を決定し、大きな予算を投じることとなる。 哈爾浜(ハルピン)に向かう高速道路ICを下りてすぐ右の広大な用地に216万菌床を収める栽培ハウスを建てて、いよいよプロジェクトの第1幕が切って落とされた。 日本にPRすると、日本農業新聞が大々的に報じてくれて、それをきっかけに商社、食品流通業者などが続々と視察に訪れることとなった。川浪はツアーを組んで、これに対応することになる。 「中国遼寧省キノコ村商談ツアー・3泊4日。参加費1人15万円」と銘打って、往復航空券(羽田・関空・福岡発着)、中国4つ星級ホテル宿泊、豪華海鮮料理など全食事付、一流カラオケクラブ2夜豪遊、移動は政府要人の送迎に使うという超高級マイクロバス、などなど全てを含んでこの価格である。 その内の航空券往復は川浪が払って、中国の宴会費とホテル代は地方政府が負担してくれる取り決めをしていた。 豪華すぎるツアーとの噂が噂を呼んで、社長レベルの申込みが殺到。毎週20~30人が参加するなどマイクロバス1台では間に合わない時期もあった。 航空券(中国国際航空)を団体購入すれば5万円余、その他もろもろの出費を差し引いても8万円近くが川浪のフトコロに残った。その上に、プロジェクトへの出資を希望する企業や個人を合わせて、わずか1年足らずで8000万円余の軍資金が集まったのである。 これを資本に、現地の政府幹部と合弁合作(事業のパートナーとして資金を出し合う)公司を設立して、シイタケ商品加工場に日本の技術を導入するヤードを設備すれば出荷準備が完了するという道筋が明確に見えてきた。 00年9月、これらの事業と輸出を一手に担う公司を川浪の独資(単独資本)で設立する運びとなった。 大連空港から市街地に入り、メーンストリートの黄河路を進んで新開路と交差する場所に珠江国際大厦がそびえる。そのビルの一角、808号室に大連渓流国際貿易有限公司を設立。 海城市には海城渓流国際貿易有限公司を設立して、どちらの公司も川浪が董事長総経理(代表取締役社長)に就任して、日本、さらには世界に向けた本格的な歩みを開始したのである。 それは、あの悪夢のような台湾大震災の僅か1年後である。 プロジェクトがスタートして18ヶ月、02年4月12日。計画と寸部も狂わずに収穫が始まり、春祭と間違うほどの多くの農民たちが参加して選別、トレー盛りつけパック作業が始まった。最新鋭の日本製自働パック機2台が高速でうなり、次々と生シイタケをパック包装してゆく。 これから150日の間、全216万菌床から約650万パック(200g/パック)の商品ができる。しかも日本にシイタケが採れなくなる夏の季節。この品質なら、日本の厳しい要求にも充分に対応できる。 大成功だ、危惧することは何もない。 そして記念すべき第1船。 大連貿易港を見下ろす高台に集合した川浪と政府幹部たちは、どんこシイタケ6万パックを積載したコンテナ船が福岡県門司港に向けて出航するのを見送った。 低く太い汽笛を鳴らし、茜色の夕陽を浴びながらブゥハイ(渤海)の水平線に消えてゆく船を、暗くなるのも忘れて眺めていた。 これから日本でシイタケの収穫が始まる10月までの5か月間、毎日3コンテナもの花どんこをパック包装して出荷する。夏の暑い時期に、肉厚の「どんこシイタケ」なんて見たことも食べたこともない日本の人たち。しかも、極寒地のクヌギをチップにして発生させるのだから、弾力性と豊かな芳香、グアニュール酸がたっぷり詰まった極上の味覚である。 日本で人気が高まることは間違いない。しかもこのシイタケ、絶体に他社では真似が出来ないオリジナル菌種である。 「夏期のシイタケ市場は俺が握った」と水平線に消えた船を目で追いながら満足の笑みを浮かべた。 そしてその時、川浪の頭の中には、親父と交わした約束のことも1片の冬虫夏草のことも、まるで存在していなかったのである。 |
冬虫夏草はやはり神秘だった |
中国きのこ村プロジェクトの後始末が終わってすぐ、有り金をはたいて、大連空港からほど近い甘井子区山東路の裏通りに建つマンションの地下一階に研究室を設けることとした。 来る日も来る日も、いろんな昆虫に冬虫夏草の組織を植えつける試験を繰り返したが、自然界とどこがどう違うのか、何が悪いのか、髪の毛のように細い子実体がチョロチョロと伸びるものの、自然のさ中で見つけたあのプリプリした元気いっぱいの冬虫夏草が出現しない。 こんなんでは台湾の頃の研究と変わらない。自分が食べてみたいと思うような冬虫夏草は確保できないじゃないか。こんなんでは日本で行うという大規模栽培なんて、夢のまた夢である。 またまた挫折感に襲われて「やはり神秘は神秘なのか。人工栽培は無理なのか」と諦めがよぎって、次第に頭脳の構造が緩んでいった。 昼間から珠江国際大厦1階の「肥牛しゃぶしゃぶ」で、青唐辛子の腌制緑辣椒(ピクルス)をつまみながら生ビールを煽り、部屋に帰って少し眠ると、夜は夜で人民路の海橋大酒店の2階にオープンした日本料理店「大江戸」に行って、醤油辛い「きんぴらゴボウ」を肴に、内モンゴルで蒸留したという焼酎を乾す生活が続いた。 夢敗れ挫折を目前にした男の孤独な闘い、不満と不安が交錯して不眠症が高じていた。 酔った勢いで一気に寝るのだが、ものの2~3時間もすると目覚めてしまう。そうすると中医から「破裂寸前」と警告されていた胆嚢結石が疼いて朝まで眠れない。 他にも、様々な病根があった。 頭と首の付け根にある神経鞘の炎症が原因といわれた激しい偏頭痛、血圧の上が180、下も100を越えて驚くことに心拍数が平常時でも毎分120に達した。黒かった頭髪が抜け落ちて白髪が進み、乱視がすすんで文字が見えない。鼻詰まりで寝られないからといって、まとめ買いしたルル点鼻薬を1週間に1本。さらに、胃が灼けるといっては太田胃散を毎食後2匙3匙。 便秘と下痢の繰り返し、脚が抜けるほど痛む座骨神経痛に夜な夜な苦しんで、マンション近くの按摩店で癒してもらう。季節の変わり目に必ずといってよいほど大風邪をこじらせて、激しい気管支喘息に苦しんだ。 そして最も厄介だったのが、漢方医が瘡(そう)と呼ぶ難病である。ゴルフボールほどの血膿の塊が顔面や耳たぶ、脇下などに吹きだして次第に体内へと移り、腹膜や胸膜にも転移するという難病である。内臓に病根があるというこの病気は、切っても切っても直ぐに体のどこかで血膿が膨らむという。後のテレビドラマで高い視聴率を上げた韓国薬膳ドラマ「チャングムの誓い」で朝鮮李王がこの病にかかり、チャングムに冬虫夏草を見つけさせたのだが、時はすでに手遅れ、衰弱して他界したというストーリーが見どころだったあの病気。 そんな病魔が川浪の体内にもフツフツと芽生えて、その度に「いつかは大手術になるんだろうな」と思いつつ、冷たい手術台にのぼって切開していた。 そして最大のピンチが訪れた、あれは2月になったばかりの寒い朝のこと。朝食に立ち寄った快餐店(ファーストフード)入口の階段で、突然と身体が反り返るほどの激しい目眩(めまい)に襲われた。 凍てついた石の階段に激しく頭から突っ込んだ川浪は、遠のいてゆく意識の中で「頭を打ったよ、お父さん死なないで」と慌てふためく社員たちの叫び声を聞きながら、頭の芯の痺れとともに暗い谷底へと落ちていった。 中国の正月となる春節は、黄河路のマンションで迎えた。快餐店の階段で打った傷よりも頸骨の捻挫の方が激しく痛んだ。しかし不幸中の幸いというか、中医からは脳内出血も頭蓋骨の挫傷も頸骨の損傷もなく「脳震とう、腎虚が原因の目眩(めまい)」だと診断された。 「腎虚」とは、腎臓の栄養が欠乏することから起こる体調不良だといわれている。亜鉛、鉄分などのミネラル摂取、そして安静が一番とアドバイスを受けたが、ここで寝てても身体が良くなるわけではないし冬虫夏草も上手くは育ってはくれない。 春節が明ければ氷も緩んで、春の陽気とともに冬虫夏草の菌糸にも勢いが戻ってくる。何とか頑張って体力と気力を回復させなければ、そして今度こそ成功させなければ、もう後がない。 次の寒い冬が訪れると、成功がまた1年延びてしまう。だから、仕事になるのは残すところあと半年。それから先は資金も底をついてしまうし、この体では再起も望めない。 川浪の頭の中には「大陸乞食」という4文字が大きく浮かんでは消えた。 この言葉は、チャイニーズ・ドリームを夢見て中国に進出して、失敗に失敗を重ねながら広い中国を彷徨う外国人浮浪者(中国人から見た)のことである。 心の中では「この地で果てるのは川浪一族の宿命かも知れないな」と、断念の可能性を探っていたのかもしれない。 |
冬虫夏草の発生に金色の虹を見た |
「春節」は、通常2月末から3月始めに巡ってくる。その前後の1週間は、漢民族を挙げて昼も夜も夜中も爆竹を鳴らし、ロケット花火を打ち上げてお祝いをする慣わしがある。 黄河路にそびえる麗都花園、その古びたマンションの22階。窓ガラスのすぐ外にも花火が飛んできて目の前で弾けて、白い閃光が広がっていた。硝煙がたなびきセピア色に染まった空をぼんやりと見上げながら、頭の中では走馬燈のように巡りくる過去の情景をなぞっていた。 何とか、何とか成功のヒントを掴みたい。 集中しよう、集中してもう一度、冬虫夏草の真の心髄まで見透してみなければ前に行けない。 眼をつぶると、大自然の山々で冬虫夏草を探し求めた懐かしい台湾阿里山や中国大自然の風景が浮かび、通りすぎていた。 続いて阿里山の深い谷の斜面で採取した見事な冬虫夏草の一株が現れ、分厚い枯草を掻き分けると、鮮やかなオレンジ色でマッチ棒のような形状をしたキノコの根元に、腐葉土にもぐれた昆虫が付着していた。さらに掘り進んでみると菌糸は周辺の腐葉土に広がり、さらに瓦礫にまでくい込んでいる。 ということは・・・ 昆虫、腐葉土、そして瓦礫に含まれているミネラルが、強靱な冬虫夏草を育てるにために必要な栄養条件なのかも知れない。 そうか、強い栄養成分をバランス良く組み合わすことで、必ずや強力な冬虫夏草が育つはず。相撲取りだってアスリートだって、みんなそうだ。いろんな食材をバランスよく食べることが、強靱な身体と見事なパフォーマンスを生みだす要素となっている。 より強靱な昆虫と栄養豊かな腐葉土、それにバランスに優れたミネラルを配合した培地を作成すれば、大自然のそれと同じように、より強靱な冬虫夏草が出現するはずである。 久方ぶりに冴えてきた頭脳は、台湾大地震を3ヶ月ほど前に遡る6月、ちょうど川浪の誕生日に宿泊していた遼寧省海城市の海城大酒店に、忽然と現れた男のことを思い出していた。 早朝に起こされた川浪がエレベータを下りるとロビーに立っていた老人。 中国人には珍しい銀髪と古っぽい紺色の人民服を着た男は「酒に漬けておいて、疲れた時に飲みなさい」と流暢な日本語で話しながら、シワシワのビニール袋に入った一掴みの異物を手渡してくれた。部屋に帰って袋を開けてよく見ると、間違いなく蟻に見える。 日本に帰って、ホワイトリカーを買って、そのなかに蟻を入れ、2~3ヶ月ほど漬け込んで恐る恐る飲んでみた。忘れもしない、台湾大地震2日前の夜だった。それまで嗅いだこともない強烈な土っぽい香りが鼻孔を突き、鼻を摘んで飲み込んだ。 その夜、辛かった座骨神経痛の痛みから解放されて、ぐっすりと眠った記憶が蘇える。 そうか、あの蟻が、まさしく噂に聞いた薬用蟻なんだな。強い蟻、強靱な昆虫、そうか、薬用蟻から発芽する冬虫夏草・・・、突飛だけど、まさしく当を得た組み合わせかもしれない。 薬用蟻で有名な長白山の「馬蟻」は、自重の300倍という餌を提げて巣まで帰るというし、体力減退した老人が探し求めて食べるというほど中国では有名だ。試してみよう。 それにしてもあの男は誰なんだろう。忽然とホテルのロビーに現れて、蟻を手渡して去っていった男。捜しだして、あの蟻の産地を教えてもらいたい。あの蟻を使ってみたら、この冬虫夏草も元気に育ってくれるかもしれないから。 さっそく老人と薬用蟻探しを始めてみたが、しかし、この広い中国であの男を見つけ出すことは東シナ海に落としたスプーンを探すに等しく、不可能に近い。もう時間がないのだから、のんびりと探すことだけを考えてはいけない。 それならば、中国で「凄い」と評判の高い蟻を集められるだけ集めてみて、自分が食べてでもテストをしてみるしかないだろう。 中国食用菌協会で知り合った各地の朋友に連絡を入れて、集めた蟻を粉にしてカプセルに詰め、手当たり次第に配って食べてもらう作戦に取り組んだ。その中に「擬黒多刺蟻」という、漢方医の間では極めて有名な薬用蟻があった。 数種類を取り寄せてカプセルに詰め、日本の友人知人に連絡を取っては送りつけて、経過を待った。 その一人、大分の友人から連絡があったのは、郵送が届いた翌日の夕刻だという。電話の向こうで「痛風で寝たきりの祖父ちゃんに食べさせたよ。今、起き上がって、外で植木の刈り込みを始めてる」と、驚くべき声が弾んだ。 「よし、この蟻を使おう」 擬黒多刺蟻といえば、薬用蟻では超ブランド品だ。それに川浪が試食してみた結果と、友人からの連絡。決断するのに時間は掛からなかった。さっそく大連に帰って、この蟻をどのように使うかの検討に入る。 蟻に直接、冬虫夏草の菌糸や組織を植えつけるのは至難の業だろう。わずか体長6ミリ程度の蟻に組織を確実に植えつけるのは高等技術にほかならないし、手間もかかる。ならば、たくさんの薬用蟻に冬虫夏草の菌糸を振り掛けるのはどうだろうか。蟻の硬い表皮を突き破って、菌糸が入り込む確率は低い。それなら、たくさんの薬用蟻を砕いて遠心分離し、硬い殻から搾り取った内液を使ってみようか。しかしながら、この方法だと1キロの薬用蟻から10ミリグラムの内液も搾れない。そして辿り着いたのが(社外秘なので書けないが)・・・という方法である。 こうして抽出した薬用蟻成分と腐葉土に見立てた植物材料をベースに培地を作り、果物でPHを調整して培地を作り、その上面に、冬虫夏草の組織を植え付けてみた。これなら安易に効率よく作業できる。 茶褐色だった培地が白い菌糸で覆われたのは1週間後、さらに3週間ほど経つと培地表面がオレンジ色に染まって、おびただしい数の米粒を立てたような発芽を迎える。 驚いた、何だこれは、菌糸の伸長がえらく早いぞ。 加油(がんばって)! そしてさらに2週間・・・ 川浪は培地の表面に割箸の先ほどもある太い子実体がビッシリと密集する光景をこの目で見た。 「まさしく、金色の光だ・・・」 摘み取って食べてみようと、努力の結晶を1本引き抜いて口に含み、そっと噛みしめた。冬虫夏草特有の甘い香りが口腔に広がり、ゴムのような強い弾力を感じた。 「やったぞ、大成功だ」 擬黒多刺蟻をベースにした、強靱な冬虫夏草が見事に育ちつつある。これなら、2次培養でも3次培養でも活力が落ちることはない。大規模栽培に一歩近づいた、と確信したのは03年6月のことだった。 中国遼寧省の夏は過ごしやすい。日中の最高気温は30℃に達するものの、日陰に入ったり陽が落ちると、空気が乾燥しているからか、サラッとして気持ちがよい。 それでも冬虫夏草にとっては少し暑いようで、28℃を超えると活性が急速に低下していた。 急ごう、成功はすぐ目の前だ。 そして、8月8日の立秋を境に菌の活性は再び上昇する。またもや、より強靭さを増すための試行錯誤と試作を繰り返す日々となった。 手持ちの資金は完全に底をついていて、あのセーフガードで日本から送り返された椎茸コンテナの輸送費、大連港通関費や冷蔵倉庫保管料も、取り扱ってくれた船会社(コンテナ輸送)に支払えない状況だった。仲が良かった公司総経理(社長)の李さんも「規則だから」と、裁判で大連渓流公司の銀行口座を差し押さえ、公司の業務は完全に閉塞状態に陥ってしまった。 開発に携わっていたスタッフ3人の給料は、擬黒多刺蟻の粉をカプセルに詰めて日本で売り歩き現金を稼いで、それを公司に持って帰ってから社員たちに配るという綱渡りが続いた。 でも不思議なことに、辛さも苦しさも不安も消えていた。川浪のことを「お父さん」と呼ぶ社員たちは「心配しないで、私たちが大連空港で靴磨きしてでもお父さんを助けるから」と、励ましてくれていた。 その上にあの最悪だった体調も、薬用蟻が効いたのか育った冬虫夏草をプチプチちぎって賞味したのが良かったのか、痛みも疼きも遠のいていた。わずか半年前までは身も心もボロボロだったのに、それが、薬用蟻を使った冬虫夏草のお陰で一気に夢と希望へと代わっていった。 「それにしても・・」と川浪は想い出す。 確か50才の誕生日が明けた早朝、ハイチャンダァチュウテン(海城大酒店)に蟻を持ってきた老人、中国人にしては珍しい銀髪と流暢な日本語を喋っていた。 ひょっとすると日本人なのかも知れない。 でも日本人の誰も、どちらかというと田舎町の海城市に川浪が泊まっているなど知るはずもない。 もしもあの汚い袋を「不好」といって捨てていたらどうだろうか、躊躇なく、台湾大地震が起きたあの日に台湾に飛んでいただろう。 昼過ぎに桃園国際空港について、迎えてくれる張弟の車に乗って阿里山に戻っただろう。久しぶりに帰ってくる川浪に会いたいと朋友たちが集まって日本や中国の旅話しを語りながら、いつものように酒盛りをやっていたに違いない。 みんなで陳年紹興酒を十数本も酌み交わした後に、レンガ造りの研究所の椅子や床に転がって爆睡していただろう。そして煉瓦の建物は午前1時すぎ、激震とともに瞬時に瓦解した。 ところが川浪は、あの薬用蟻、いや、あの老人を探そうとして中国に飛んだ。そのお陰で数人の男が命拾いをしたのかもしれない。 そして強烈な、何かに引っ張られるように台湾から中国に活動拠点を変えた。大きのこ村プロジェクトに没頭して大きな挫折を味わっているが、どん底のさ中で最後の最後に薬用蟻を試して、それが見事に成功へと導いてくれた。 想い起こしてみると、あの銀髪の男に薬用蟻を託された日を境に、運命を動かす巨大な歯車が切り替わったような気がしていた。 |
運命の糸を見せてくれた冬虫夏草 |
厳しい大連の冬が来て、冬虫夏草の試作はお休みとなったが、この間に多くの人に食べてもらって効能効果を確かめたり、食あたりなどのトラブルがないかを調査しておかねばならない。 川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから悪い結果が出ないのは分かっていたが、やはり「絶対に問題がない」という揺るぎない自信と、数多くの体験録が欲しかった。 薬用蟻エキスをベースに冬虫夏草を育てるなんて世界で初めてのことだから、何が出てきても不思議ではないという一抹の不安はあった。 少しでも早くデータをまとめてPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。だけどそうした日本における活動には、ホテル代とか飛行機など、かなりの経費がかかるだろう。 しかし残念ながら、公司の手持ち資金はとっくに底をついていた。経費を捻出するには、日本にできた代理店の数人に薬用蟻のカプセルを売ってもらって小銭を集めるのが精一杯、他に方法はなかった。 そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友だったF君から国際電話が入った。 イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂でやりたいそうだ。JAL航空北京公司に頼んだが、半年経っても回答がないらしい。調べてもらえないか?」というのだ。 人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が所有し管理する中国随右の施設である。その3階にある小礼堂とは、党幹部500人が国家の方針と全人代の運営を話し合う重要で内密な会議室だ。そんな凄い場所を日本企業が使うなんて無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。 半日後だった、早々と北京から「北京政府が許可してくれた。何でも市長の李さんが、川浪先生のことを知ってるそうだ」との連絡なのである。F君に伝えると「本当か?」と、信じられなかったようである。あの大手航空会社でも無理だったのに、何で川浪が、しかもわずか半日で「OK」がもらえるのかと言うのである。 北京では珍しく大雪が積もった、とても寒い日だった。北京飯店で落ち合った川浪と公司の助理(通訳)そしてF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かう。 約束の時間、大会堂に上がる階段には職員たちが2列に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を恐縮しながら登った。これは、最上級の客人に対する施設職員の儀礼なのだろう。 扉の前に、責任者の劉主任(所長)らしき若くて大柄な男が迎えに出ている。固い握手を交わした後に、中国13億人を掌握する国家中枢へと足を踏み入れた。 メーン階段の踊り場には国宝級の彫刻が並び、大餐店(大会堂大宴会場)では、大天井に燦然と輝く巨大な国花・牡丹をあしらった大オブジェに度肝を抜かれた。 小礼堂は、映画館のように緩やかな階段状のフロアに深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群である。 この豪華さの中で、社の威信をかけた表彰式をするとは、さすが世界に冠たるA保険である。夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で、最上級のパーティをやりたいという希望だった。 なんと、料理はクリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニューを所望。それに中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇の上演、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐのが希望だという。 さらにA社500人のゲストに酌をしたり料理を装う服務員が各テーブルに1人、通訳は同時通訳クラスを10人も用意すれば宜しいでしょう。 さらに大餐店の壁添いには、切り絵師や似顔絵師など中国で名工と賞される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、A保険公司」の巨大な横断幕を掲げるようにしてほしい。 「これならどんなゲストをお呼びしても、満足してくれるに違いない」と、F君は胸を張った。 眼が飛び出るような贅沢な演出である。だが、劉主任は平然とした表情で「全て大丈夫ですよ、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」と確約してくれた。 「夢を見ているようで、信じがたい」と、大会堂の階段を下りながらF君は盛んに首をひねった。日本にいるときは超難題だと考えてたのに、ここに来てみると、何でもないことのように感じてしまう。こんなことって、有っていいのだろうかと。 「分かった、劉主任を夕食に呼ぼう。信じられるまで質問していいよ」 日本料理のテーブルを囲んで、劉主任と腹を割って話しができた。JAL公司からの申込みは届いていないことや、北京市長が前任のとき、中国食用菌協会で川浪の講演を聴いていたことなど、いろいろと話してくれて、ようやくF君の疑問は確信へと変わった。 劉主任が提示してくれた見積額は50万人民元、日本円換算すると750万円に達した。500人のゲストとA保険のスタッフ、それに川浪らのサポートも含めると1人当たりで12000円予算の超国際級パーティである。 その上に上海雑伎団の総員40人、その航空機往復代金とホテル宿泊代金、機材を運ぶトラック5台が往復、それに加えて京劇の出演料、舞台装置設営費用など、日本の常識から考えるとかなり安目の金額だといってもよい。 保険A社も即座に合意してくれて、大会堂側と川浪公司が契約し、川浪公司が保険A社代理人と契約する運びとなった。そして川浪は来るべき公演の打ち合わせのため、上海に飛ぶ。演目を視察したり日本人の好きそうなものを選別したり、プロデューサーと入念な打ち合わせを進めなければならないからだ。 劉主任からの連絡はすでに雑伎団に寄せられており、応対してくれたプロデューサーの周は「大餐店の公演はとても緊張します、失敗ができないから」と直立不動で応対してくれた。 その他にも、劉主任の手配は抜かりがなかった。 「大丈夫、全て確認した」と、早々にも成功を確信し、日程も5月7日に決まった。 記念すべき壮大なパーティーが中国国家の中枢で行われる。 ところが、良い方向に切り替わったと思われていた「運命」という歯車が、またまた瓦解の方向に柁を切ったかようである。思いもしなかったことが、深く静かに進んでいたのだ。 準備万端、残すところ2週間に迫った4月24日に、F君から暗い声で電話が入ってきた。思ってもみなかった「SARSが怖いから中止にしてほしい」という連絡である。 「SARSって何だ?」 中国大連にいる者にとって、中国国内で危険極まりないニュースは逆に入りにくい。だから突然と「SARSが怖い」といわれても、理解できなかった。 聞くところによると、SARSとはコロナウイルス感染による急性呼吸器疾患で、中国広州が感染源となって徐々に拡大しているという。日本ではもっぱら、このニュースで持ちきりだというのである。 「またもや瓦解が始まったか」 川浪の頭の中で、何かがバラバラと崩れ落ちてゆく。またしても行く手を遮ろうとする、眼に見えない巨大すぎる壁・・ 台湾プロジェクトも中国きのこ村構想も、さらにこの表彰式典も、どれもこれも同じように段取りを完璧に終わらせているのに、関与する仕事の全てが瞬時に崩壊してしまう。 「運命」に逆らわないようにと冬虫夏草の夢を実現させながら、親友の助けになればとの想いでやったことなのに。あれも駄目、これも駄目だというのは、あまりにも酷いじゃないか。誰とも付き合うなというのか、困った人がいても無視してしまう、そんな薄情な男になれというのか、川浪は天を仰いだ。 悔やんでばかりはいられなかった。精一杯の好意を示してくれた劉主任にキャンセルを伝えて、精算のお願いをしなければならない。巨大な横断幕も発注しているだろうし、雑伎団も、川浪が打ち合わせしたとおりに大餐店の天井高に合わせた機械器具に改造してくれている。飛行機やホテルのキャンセル代、服務員たちのキャンセルフィーなど、すでに、かなりの費用がかかっていることだろう。 保険A社サイドの契約では、開催日より2週間を切った中止には違約金として契約額全額を頂戴するように取り決めていた。そしてまさしく、キャンセルの連絡が入ってきたのが、ちょうど2週間前。契約違約なのか、それとも無償のキャンセルなのか微妙な日取りである。 危うい思惑が頭をかすめた・・・ 保険A社から「2週間に達してないから無償キャンセルが成立する」と指折り数えられ、劉主任からは「残り2週間を12時間ばかり周っているから清算する」という、最悪の展開になったらまずいな。台湾でも中国きのこ村でも、最後の最後に致命的な大損をした。そして今度も、また大損を被りそうな雰囲気なのである。 あれは、キャンセルの連絡を受けた日から3~4日経ったゴールデンウィークの直前だった。保険A社サイドから「キャンセルは私どもの要望だから、全額をお支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」との意向が寄せられた。 そして5月初旬、劉主任から、思ってもいなかった回答が返ってきた。 「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には多大な迷惑を掛けた。よってキャンセルに掛かる代金は不要だ」というのである。 「いやいや、キャンセルフィーは保険会社が支払ってくれるので、私にとって何の負担もない」と言っても、劉主任は頑なに拒むのである。 そして数日後、北京に飛んで劉主任と面談。払う、要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府がキャンセル料の受領を正式に拒否したのである。 予定どおり開催していれば50万~75万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円近い大枚が転がり込んできた。契約を遵守してくれた保険A社にはまことに気の毒だったが、我が大連渓流公司はこれで息を吹き返した。 朝日が昇るように幸運が続いた。 川浪の研究や実績を知った食用菌協会の研究者たちが、続々と会いに来てくれて「日本にキノコ菌床を輸出したい」というのである。台湾でやってたようにシイタケ、タモギタケ、エリンギ、霊芝、キクラゲ、そして川浪が名づけ親となった「つくし茸」を輸出して、日本では川浪が栽培指導をするという得意とするビジネスだ。あっという間に毎月4~5コンテナを日本に運ぶほどに急成長して、米ドルが絶え間なく流れ込んできた。 社員も増やした。 手狭になった事務所を、大連で一番の目抜き通りである人民路、大連富麗華大酒店(フラマーホテル)の斜め向かいに建った白亜の超高層ビル、虹源大厦(ホンイェンターシャ)34階に移すことを決めた。 「冬虫夏草も見事に完成したし、キノコ菌床のビジネスも順調。この虹源大厦を起点として、日本まで大きな虹を架けよう。日本の皆さんにクイックで健康を届けたい」と社長室の全面ガラス張りの窓から、はるか日本の空を仰ぎ見た。 そしてその思いが通じたのか、日本の総代理を希望する大証・東証1部上場のE社と20万菌床、貿易総額6000万円に達するビッグビジネスが進んだのである。 川浪はSARSのさ中、東京に飛んで冬虫夏草の事業性、安全性、効能効果、栽培方法などを説明し、そして2004年1月、契約締結とともに着手金として2000万円余が大連の銀行口座に振り込まれたのである。 思い返せば1年前、自然界のように元気な冬虫夏草が出現しないことを嘆き、苦しみ、酒浸りになって身体を壊し、頭を強打して病院に担ぎ込まれていた。そして薬用蟻を思いついて、不思議なくらいに、あっという間に完全復活したのである。 手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草20万菌床を日本に持って入ったのは、2004年3月30日だった。ちょうどその頃、もう一つの「運命」というべき巨大な歯車が、ゆっくりと始動していたのである。 |
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